近衛秀麿 山田一男
木下保 がやって来た
木下保が山形市にやって来たのはいつ頃だったか、それは終戦後、それ程経っていない頃だったような気もしますが?。会場と云っても当時は公会堂があったわけではなし、近くの小学校の講堂を借りての事でした。当時は催しモノとなると、中身が何であれ、とにかく、何でもかんでも満員になった時代で、集まったのは若い者に限らず、ばあちゃん ぢいちゃん から赤ん坊迄、あらゆる住民が入っていたような気もしますが?。
ただ、出演者の歌手は、当時とは申せ、載せた写真とは違って、かなりお年を召された方だったような気もしますね。
木下 保(きのした たもつ、1903年10月14日 - 1982年11月11日)は、日本の声楽家(テノール)、指揮者。
兵庫県豊岡市出身。1926年、東京音楽学校本科を卒業。1931年にレコードデビュー。1932年から1935年までドイツとイタリアに留学する。帰国後、「木下保リサイタル」として、毎年、ドイツ歌曲を作曲家単位で紹介するという、それまでにない破格の演奏会を行い、戦時中は山田耕筰、信時潔などの作品を一晩集中して歌うという演奏会を行っている。東京音楽学校の声楽科主任教授という立場があってこそできたものではあったが、この時期に日本人作曲家の歌曲のみでリサイタルを開くのは画期的なことであった。立場柄、若干の軍歌の録音があり、千葉静子と「サイパン殉国の歌」などを吹き込んでいる。また、1937年より日本に定住したピアニスト・指揮者、レオニード・クロイツァーと録音したシューマン「詩人の恋」は名盤として知られる。ベートーヴェン「第九」は、学生時代に東京音楽学校定期演奏会での公式初演で合唱団メンバーとして参加し、新響(現「NHK交響楽団」の前身)による初演奏でソリストを務めたのを皮切りに、戦前の主だった演奏で常にソリストとして名前が記されている。