2012年2月29日水曜日

“ Woman in Love ”

 風呂に入る時は脱衣所に、このテープレコーダーを持って行くのを常としているのですが、本日はテープを変えみました。
 そのテープの曲は、かなり昔、誰かから借りたテープから入れたのか、どうか、はっきりしないのですが、曲目は「Woman in love」です。

 懐かしかったですなあ〜 、ホント、途方もなく懐かしい次第でした!!〜。

 

バーバラ.ストライサンド Woman in Love

 Life is a moment in space
 When the dream is gone
 It's a lonelier place
 I kiss the morning good-bye
 But down inside you know
 We never know why

 The road is narrow and long
 When eyes meet eyes
 And the feeling is strong
 I turn away from the wall
 I stumble and fall
 But I give you it all

 こんな曲、懐かしく感じる御仁って、結構おられるもんでしょうかね-------。

スカイツリー

 東京スカイツリー
 
 これを見ると、もう殆ど完成したとみてよろしいでしょう〜。
 この絵は今朝の朝日新聞からです。

  
 ナントカは高い所に登りたがる------こんな謂れをよく聞きますよね。
 つまり、この塔が完成すると、その “ ナントカ ” が大挙押しかける事は必定〜。

 勿論、この私も 立派なナントカをもって “ 自負 ” しているわけですから、いずれ是非とも行かねばなりませぬ でしょうなあ〜。

今日は「閏日」

 2月29日(にがつにじゅうくにち)は、太陽暦であるグレゴリオ暦の閏日に当たる日。
(2月24日を閏日とする地域もある)。
 年始から60日目に当たり、年末まであと306日である。
 閏日が存する年を閏年と言い、西暦の年が4で割り切れる年がこれに当たる。

 ただし、100で割り切れる年は400で割り切れる年を除いて閏年ではない。
• 閏日日本などでは2月29日を閏日としている。伝統的には2月24日が閏日とされる。
• ニンニクの日(日本)「にん(2)に(2)く(9)」の語呂合せ。
• 富士急の日( 日本)「ふ(2)じ(2)きゅう(9)」の語呂合せ。富士急行が2003年に制定。

「テンペスト」3楽章


 
 ベートーベン ピアノソナタ「テンペスト」から〜です。

 演奏は最高のピアニストと云われる「グレン グールド」。
 勿論、名演奏には違いありませんが、ちょっとテンポが早過ぎる感じかなあ〜。
 いくら「テンペスト」とは云え、早く弾けばいい〜と云うものでもないと思うのですがねえ〜。

 

 
 ともあれ、テンペストですから、確かに、天災ごとき場面を描いた名画も出て来ます〜。

ピアノソナタ「テンペスト」3楽章

  私好みの曲ではNO-1でしょうか。

 

 ピアノ・ソナタ「テンペスト」op.31-2より3楽章
 ルードウィヒ・ファン・ベートーヴェン (1770 ~ 1827) ドイツLudwing van Beethoven

 1802 年に作曲されたこの曲の表現内容に関するシンドラーの質問に対して、
 ベートーヴェンは、シェイククスピアの「テンペスト」を読むよう答えたといわれています。
 メランコリックな詩情に満ち、どちらかといえば沈んだ気分を感じさせますが、
 そこにはまた嵐(テンペスト)のような激情をも表現されています。

 お聞きになられたい方は下記のURLで開いて下さい。

 http://classic-midi.com/midi_player/classic/cla_Beethoven_tenpest_3.htm

雪の降る街よ〜


 
(1) 雪の降る街を 雪の降る街を
  想い出だけが 通りすぎてゆく
  雪の降る街を
  遠い国から おちてくる
  この想い出を この想い出を
  いつの日か包まん
  あたたかき幸福(シアワセ)の ほほえみ

(2) 雪の降る街を 雪の降る街を
  足音だけが 追いかけてゆく
  雪の降る街を
  一人心に 満ちてくる
  この哀しみを この哀しみを
  いつの日か解(ホグ)さん
  緑なす春の日の そよかぜ

 このラジオ歌謡曲が世に広まったのは昭和25〜6年とあります。私の場合は新制中学から高校へ---と、
そんな頃のようですね。
 よく覚えていますよ。確かに、雪の降る寒い寒い街、そんな山形での生活でしたから〜〜。

雪が積もった-2

 見事な迄に白銀の世界が広がっていました〜〜。

 
 犬は もともと北国の動物なわけで、日常的に変わった振る舞いは全くありません。
 いつもの通りの、いつもの調子で、キッチリと今朝の散歩を無事果たして帰って来ました。

 
 考えれば、これだけ天変地異?が生じているわけですから、「まる」の振る舞いにも、何かと変化があっても不思議でもないとは思うのですが、昨日今日で、ホント違った動きは完全にゼロでしたね〜〜。

 
 雪の世界を見回して、一見考えている風情ですが、仮にそれがあったとしても、単に、それは、帰路のコースを確かめている〜〜そんなところでしょう。

雪が積もった

  夜中に起きて、雪が降っているのに驚きました。

 
 朝起きたら、このような大雪!?になっていたので、タマゲて腰を抜かしました!〜。

2012年2月28日火曜日

散歩道から2-28

 
 8時頃の散歩から。
 いつもの通り、ほぼ真っ暗の中にライトの灯りが見える程度なのですが、カメラでは、この程度の明るさになります。
 ------とにかく寒い夜だったので、早々で帰って来ました。

 予報では、明日は雪との事、「まる」が喜ぶのはよいとして、人間サマには冷たくて最悪ですよなあ〜。

日陰の草

 午後の 散歩道からですが〜。

 
 文字通り、ここは日陰の場所。
 これは、日陰を好む草なのか、そうではなく不幸にして?ここに生きるべく葉を茂らしているのか、それは不明ですが、それにしても、よくぞまあ〜茂っているものですなあア〜。
 土が新しいのを見ると、ここを選んで植えられたような感じもしますが。

 ---------ともあれ、日陰を好む植物って、あったとしても、これがそうとは思えないのですが-----。

「手紙」

 「てがみ」は、どうして “ 手 の紙 ” 「手紙」と書くのか、子供の頃から不思議に思っていましたね。
「通信紙」とか「送り文」とか、それらしい名称にしてもよかったと思うのですよ。
 因に、検索してみたのが下段の文面です。
 ただ、それを見ても全く判りませんでしたが〜〜。

  手紙(てがみ)とは、特定の相手に対して情報を伝達するための文書のこと。信書(しんしょ)、書簡・書翰(しょかん)、書状(しょじょう)などとも呼ばれる。古くは消息(しょうそく、しょうそこ)、尺牘(せきとく)とも呼ばれた。

 広義には封書(封筒に入れて送る書状)、はがき(封筒に入れずに送る書状)、特定の人に向けて回覧する紙片の全般を含むが、狭義には封書のみを指して用いることも多い[1]。英語では封書を意味するa letter、あるいは郵便物を意味するmailをあてるのが一般的である。

見上げれば--空

 雲は風によって、いろんな形に変形すると思うのですが、どんな風が吹けば、このような形状になるのでしょうか、ちょっと推測が出来ませんね。
 それ程 変な形状でもありませんが〜。

 
 太陽光線がモロに筋状に写っています〜〜。
 ただ、肉眼で見るとなると このようには見られませんなア〜。

国立歴史民族博物館

 かなり以前に私が訪ねた頃の姿。2001年の夏。

 
 現在がこれ、かなり大きくなったような感じですね。
 まあ〜その程度の発展は当たり前、とは申せ、随分と発展したようだと驚いた次第〜。
 いずれ折りをみて、もう一度訪ねてみるつもり。

 以下、多少長くなりますが、以前訪ねた時のコメント。
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 千葉県佐倉市に国立の博物館がある、とは知りませんでした。
 とにかく行ってみようとなって家族で行ったのが2001年8月26日。やはり驚きました。国立の名に恥じない豪華絢爛たる内容です。

 この博物館だけの特徴であるとは思いませんが、最近の、この種の展示場で気がつく事に、展示品をパネルに書いた文字ではなく、現物に近い模型、ジオラマ、音響、動きのあるメカニズム、等々で、感覚重視の意図がはっきり読み取れます。結構な事だと思います。然し、その分大変なコストと維持費がかかる筈、とご同情申し上げたい気持ちでした。
 展示内容は、縄文時代から近代まで、歴史博物館ですから当然の順序で進行しています。その中で特別に注目した箇所はどこか、と云われても分りませんね。広いのと、資料豊富で、どこがどうなのか、全体把握が出来ずに終わったような感じでした。

 強いて興味があった箇所となると、やはり古代でした。
古代には何故興味があるか----それは、サイトの何箇所かに書いてありますが、縄文時代、弥生時代、古墳時代、そして飛鳥奈良時代、と続く中で、弥生後期から古墳時代にかけてがあまりにも考察・考証が抜け落ちている、というこの学界での不思議な現実にあります。
 弥生後期、それは卑弥呼の時代ですが、ヨーロッパでは皇帝ネロの時代、そしてポンペイの時代と重なっています。中国では三国志の時代です。東西共々当時の生活水準は現代と見間違える程の高水準にありました。然るに日本では茅葺きの掘立て小屋に女王が住んでいる、とする推測では余りにも発想が貧弱過ぎると思われるのです。

 弥生時代の水田は最初から完成された姿で発掘されています。この事は水田農耕が完成された姿で中国・朝鮮から入って来た証拠です。それならば、住居や他の建造物(豪華な宮殿や居城)に於いても、やはり完成された姿で輸入!!されて然るべきだと思うのですがいかがでしょうか。当時の日本は隔絶された国ではありませんでした。中国、朝鮮との間にはかなり濃密な交易関係が成立していたのです。日本人の知的レベルは遺伝的にも別に劣っていたわけではありません。

 縄文、弥生、古墳、と続く歴史は原始時代そのものです。弥生の最後は西暦100年頃、古墳最後は600年頃です。とにかく「原始時代」とされてあります。それが7世紀となると、いきなり法隆寺が出現します。掘立て小屋から法隆寺へ、歴史は大きくジャンプするのですが、そんな馬鹿な事はありません。

 女王卑弥呼は超デラックスな大宮殿に住んでいたのですよ。そのくらいの規模の文化水準を想定しておかないと法隆寺建立には結び付かないのですよ。

 この博物館での陳列は----旧石器時代の日本----縄文時代の日本---縄文土器の変遷---縄文時代の村---縄文人の家族---日本人の系譜---稲作の系譜---稲魂をもたらす鳥---青銅製祭器の埋納---箸墓古墳---東国のムラ---東国の豪族の居舘---(そして)---宮中枢部の変遷と復元模型(平城京中枢部の復元模型)-------と、続きます。このうち「東国の豪族の居舘」は竪穴住居が発達した大型掘立小屋です。時代は6世紀初頭とあります。この居舘は群馬県にあるもので、当時であっても田舎なので、それをもってその時代の建築とは言えません。
 とにかく、これでは中国の宮殿建築を模した平城京が700年代中頃にいきなり出て来る時代背景が理解出来ません。

 但し、一般的には古代に対する興味よりは、近代から現代にかけての展示の方が面白いかもしれませんね。この博物館は巨大なので、古代からスタートすると途中で草臥れて近代以降なんてどうでも良くなってしまいがちです。むしろ現代から古代へ逆コースで見学して行った方がベストかも知れません。平安、奈良、古代、等、終わりに近いそのあたりは適当に見てオワリにしても悔いは残らないでしょう。
 なお、小中学校の児童生徒向けに、問題集が渡されます。展示品を見ながら答えを書いていく方式です。タメになります。

メガソーラー

 
 新聞に出ていた広告です。
 面白いと思い、一席申し述べようと思ったのですが、残念ながら、別に、大した事も思い浮かびませんでしたね〜。
 ただ、この画面だけは結構凄みがあったので、アップした〜〜まあ〜そんなところでした。
 

2012年2月27日月曜日

散歩道から2-27

 実際に歩いている時は、ここに出ているような上からの太陽光を見る事は出来ませんね。
 カメラを持って、多分 写るのではないかとダメもと承知でパチリとやって、写れば大成功〜と、そんな程度ですかね〜。

 
 厚い雲が切れ始めたので、多少気圧がアップしたのではないかな、と、そうも思ったのですが〜。

 
 別に見栄えのする場所ではないのですが、西日が当たると、このようなガサツな賑やかさが出て来る〜〜といったアンバイです。

戦局の読み方


 今でこそ、東条英機大将の見解に誤りがあった・・・と申しても無益なハナシですが、参考までにその頃の彼の判断を検証してみました。

 戦争指導の大綱

敗色濃厚な状況下の1944(昭和19)年8月19日、天皇臨席の下に開かれた最高戦争指導会議は,以下のような「世界情勢判断及戦争指導大網」を決定、あくまでも聖戦完遂の方針を確認した。

 世界情勢判断

第1節 東亜ノ情勢
第2節 欧洲ノ情勢
第3節 「ソ」ノ対日動向
第4節 世界政局ノ動向
第5節 綜合判断

 今後採ルへキ戦争指導ノ大綱

 帝国ハ,昭和18年9月決定ノ「今後採ルへキ戦争指導大網」ニ基キ,米英必死ノ反攻ニ対シ戦争目的ノ完遂ニ邁進シソツアリクルモ,其ノ後ニ於ケル世界情勢ノ推移ニ鑑ミ,立ニ当時ノ世界情勢判断ニ所要ノ修正ヲ加へ昭和19年末頃ヲ目途トスル情勢ノ推移ヲ観察シ,戦争指導ノ方策確立ニ資セントス

第1節 東亜ノ情勢

 敵ハ,帝国ニ対シ短期終戦ヲ目途トシ各方面相策応シツツ組織的総攻勢ヲ続行スへク,特ニ本土空襲及ヒ本土卜南方地域トノ分断ヲ目的トシ太平洋及ヒ大陸方面ヨリスル攻勢作戦ニ依リ戦局ノ急速ナル進展ヲ企図スへシ,又右戦局ニ伴ヒ本土上陸ノ機ヲモ窺フコトアルへシ尚敵ハ,其ノ武力攻勢ニ策応シ政謀略ヲ益々激化シテ我カ戦意ノ喪失ヲ企図スルト共ニ大東亜諸国家諸民族ノ対日離間ヲ激化スへシ

1.本土空襲

 帝国本土ノ生産設備,交通施設及ヒ主要都市ノ徹底破壊ヲ以テ我カ戦意ノ喪失,国力ノ低下,国民生活ノ混乱ヲ企図シ併セテ本土上陸作戦ノ機ヲ作為セントスル敵ノ空襲企図ハ,支那及ヒ太平洋基地ノ整備卜機動部隊ノ活動トニ依リ概ネ8月以降逐次連続執拗且ツ大規模ニ実施セラレ,其ノ空襲被害ノ帝国戦争遂行力ニ及ホス影響ハ軽視ヲ許ササルモノアルへシ 

 
まあ~~分かってはいたが、どうにもならなかった・・・・これだったのでしょう。

2.海上交通破壊

 今後敵ノ我カ海上交通破壊作戦ハ,在支航空部隊ノ活動卜相俟ソテ南西諸島,比島方面ニ対スル潜水艦ノ集結使用,機動部隊ノ挺身行動等ニヨリ益々活発化シ船舶ノ被害ノ、増加スへキモ,比島及ヒ南西諸島方面ニ対スル敵航空基地獲得ノ企図達成セラレサル限リ本土卜南方地域トノ海上交通ノ、概ネ維持シ得へシ 
 
 
敵はサイパンだけでもで充分でした。それを可能にしたのがB-29でした。

3.太平洋方面 中部太平洋方面ノ敵ハ,随時我カ艦隊トノ決戦ヲ企図シソツ,マリアナ及ヒ西部カロリンノ要衝ニ海空ノ基地ヲ推進シ頼太平洋方面ヨリノ進攻ニ策応シ,比島及ヒ南西諸島方面ヲ攻略シ帝国本土卜南方地域トノ交通遮断ヲ企図スルナラン,右来攻ハ概ネ10月頃迄ニ実現スルノ算大ナリ
 
 
敵艦隊は我が艦隊との決戦など毛頭希んではいなかったようでいたが?。空母等による決戦の意図は見られず、長距離爆撃機Bー29による本土爆撃のみでしたね。その最初の空爆は、なんと中国の 成都 からでした。
 空母からの艦載機が飛んで来たのは、状況が決定的になってからのようでしたね。

此ノ間小笠原方面及ヒ千島ノ要地攻略オモ企図スへシ

4.緬面及ヒ印度洋方面

 北緬並ニイムパール方面ニ対シテノ,雨期中卜雖モ依然圧力ヲ加重スへク持ニ印支ルート啓開ニハ全力ヲ集中スへシ,又太平洋方面ノ攻勢卜策応シ有力ナル機動部隊ヲ以テスルアンダマン,ニコバル等ニ対スル上陸作戦トスマトラ油田地帯ニ対スル空襲ハ其ノ実現性大ナリ
 
 
インパール作戦は悲劇でした。全滅です。それは敵の攻撃からではなく、あまりにも無謀な作戦と、加えて いかにも厳しかった自然条件についての認識不足からだったような気がします。

5.支那方面

 重慶ハ,極力抗戦ニ努メ持ニ南支部方面航空基地ノ維持ヲ図リツツ我カ奥地進攻ヲ阻止スルト共ニ,印支地上ルートノ啓開作戦ヲ執拗ニ継続シ爾後戦力ノ恢復増強ニ伴ヒ反攻ヲ実施スへシ又米,支空軍ノ増勢ノ、依然継続スへク,本土及ヒ鮮満北支等ノ要域ニ対スル空襲並ニ海上交通ノ破壊企図ハ愈々増大スへシ

尚在ソ及ヒ外豪ヲ適スル援蒋ルートノ啓開ニ関シテハ「ソ」ノ今後ノ動向トモ関聯シ警戒ヲ要スへシ

6.大東亜諸邦ノ動向

 大東亜諸邦ハ,満洲ヲ除キ現情勢ニ就テ既ニ其ノ対日協力的態度消極化ノ兆アリテ,今後東亜並ニ欧洲ニ於ケル枢軸側戦局ノ推移卜敵側政謀略ノ激化卜相侯ツ政府及ヒ民衆ノ動揺,治安ノ悪化等ノ、漸次増大スへシ,就中支那ニ於ケル我カ占拠地域民衆ノ対日非協力化,比島民衆ノ離日敵性化,奉国内ノ動揺等ヲ逐次招来スルノ虞大ナリ
 印度仮政府ノ対日動向ニハ変化ナカルへキモ,印度ニ於ケル英印相剋ノ度ハ戦局ノ推移ニ応シ上下スへシ

 第2節 欧洲ノ情勢

 欧洲戦局ハ,米英軍ノ北仏上陸及ヒソ軍ノ夏季攻勢開始ニ伴ヒ漸ク本格的決戦段階ニ突入シ其ノ大勢ハー般ニ独側ニ不利トナリツツアリテ今後独側ニシテ政戦局ノ転機ヲ有利ニ把握セサル限り其ノ戦争指導ハ愈々困難ノ度ヲ加フルニ至ルへシ

1.独ソ戦争

 独ソ戦線ニ於テハ,「ソ」ハ今後主トシテ政略的見地ニ基キ自主的作戦ヲ指導スル算大ナルモ本年後期ニ於テノ、失地ノ大部ヲ恢復スルノミナラス,更ニ西部波蘭並ニ東プロシヤ及ヒ洪牙利ノー部ニ侵入スルト共ニ羅馬尼及芬蘭ノ大部ヲモ掌握スルノ事態ヲ見ルコトナシトセサルへシ

2.西欧第2戦線

 西欧2戦線方面作戦ノ成否ハ,独ノ運命ニ最モ重大ナル影響ヲ及ホスへク,独ニシテ今後好機ニ投シタル反撃ヲ実施スルカ或ハ米英軍ノ補給ヲ充分ニ遮断シ得ル場合ニ於テノ、戦勢ノ挽回可能ナルへキモ然ラサル場合ニ於テノ、米英戦線ハ逐次内陸ニ拡大スルニ至ルへシ

3.独ノ傘下諸邦並ニ中立国ノ動向

 今後ニ於ケル独ノ軍事的情勢ハ楽観ヲ許ササルモノアリ,特ニ第2戦線方面ニ於テ断乎クル決勝的攻勢ヲ採り作戦ニ成功ヲ収メサル限リ東部戦線ニ於ケル相次ク後退ト相俟ツテ,独ノ傘下諸邦並ニ中立国等ハ漸次反枢軸側ノ策謀ニ屈服スルノ事態ヲ見ルコトナシトセサルへシ  

 第3節 「ソ」ノ対日動向

 東亜及ヒ欧洲ノ情勢枢軸側ニ不利ニ進展スル場合,「ソ」カ依然従来ノ如キ対日中立態度ヲ堅持スへキヤ否ヤハ疑問トスル所ナルモ,特別ノ事態発生セサル限リ自ラ求メテ対日参戦ハ勿論対米軍基地供与ノ挙ニ出ツルコトナカルへシ

 
ソ連の態度に対する見解は、これでは甘過ぎていましたね。決定的でした。

 第4節 世界政局ノ動向

 交戦各国ハ死闘ヲ続ケツツアルモ今ヤ内存スル窮状漸ク表面ニ露呈セントシ,茲ニ彼我戦勢ノ均衡破綻及ヒ予想スへカラサル異変等ヲ生センカ直チニ政局転機,動因ヲ包蔵シアルノ状顕著ナリ従テ今後ノ状勢推移ニ依リテハ,欧洲ニ於テ独ソ又ハ独英米和平問題ノ発生及ヒ中立諸国ノ背反又ハ独傘下諸邦ノ脱落ヲ見ルコトナシトセサルへク厳ニ警戒ヲ要スへシ,又重慶ハ,戦局ノ推移,米英ソノ動向及ヒ日本ノ態度如何ニヨツテハ,将来政局転換ヲ考慮スルノ可能性ナシトセス 

 
ドイツについての視点は間違ってはいませんね。但し、それはドイツの敗戦によるもの、とまでは考えていなかったようです。
 いずれにせよ、それが決定的に日本に不利になる点に於ては、どうにもならない展望でした。

 一方、重慶が政局転換を図る---- ではなく、全中国そのものが赤化するとは、当時としては誰も考えていなかったでしょう。

 第5節 綜合判断

 今ヤ敵ハ,戦争ノ主動性ヲ把握シアノレノ現状状ニ乗シ全力ヲ傾倒シテ政戦両略ニ亘ル真面目ナル決戦攻勢ヲ続行強化セントシ,今夏秋ノ候ヨリ戦政局ノ推移ハ愈々重大化スへク,之ニ対シ帝国ハ欧洲情勢ノ推移如何ニ拘ラス決戦的努力ヲ傾倒シテ敵ヲ破摧(はさい)シ,政略施策ト相俟ツテ飽ク迄モ戦争完遂ニ邁進セサルへカラス

  今後採ルへキ戦争指導ノ大綱

  方  針
1.帝国ハ,現有戦力及ヒ本年末頃迄ニ戦力化シ得ル国力ヲ徹底的ニ結集シテ敵ヲ撃破シ,以テ其ノ継戦企図ヲ破摧(はさい)ス
2.帝国ハ前項企図ノ成否及ヒ国際情勢ノ如何ニ拘ラス,一億鉄石ノ団結ノ下必勝ヲ確信シ皇土ヲ護持シテ飽ク迄戦争ノ完遂ヲ期ス
3.帝国ハ,徹底セル対外施策ニ依リテ世界戦政局ノ好転ヲ期ス

     要  領

1.本年後期国軍戦力ヲ最高度ニ発揮シテ決戦ヲ指導シ敵ノ企図ヲ撃摧(さい)ス之カ為概ネ左記ニ拠り作戦ヲ遂行ス
 イ 太平洋方面ニ於テハ,来攻スル米軍主力ヲ撃滅ス
 ロ 南方重要地域ヲ確保シ且ツ万難ヲ排シテ圏内海上交通ノ保全ヲ期ス
 ハ 印度洋方面ニ於テハ,概ネ現態勢ヲ保持ス
 ニ 支那ニ於テへ,極力敵ノ本土空襲企図ヲ封殺スルト共ニ海上交通ノ妨害ヲ制扼(せいあく)ス

2.速カニ左ノ施策ヲ断行ス

 イ 国体護持ノ精神ヲ徹底セシメ,敵愾心ヲ激成シ闘魂ヲ振起シテ飽ク迄闘フ如ク国内ヲ指導ス
 ロ 統帥ト国務トノ連撃(れんげき)ヲ愈々(いよいよ)緊密ニス 之カ為最高戦争指導会議ノ運営ヲ愈々活?(かっぱつ)ニス
 ハ 決戦戦力特ニ航空戦力ノ急速増強ヲ期ス 之カ為各般ニ亘り生産隘路ヲ強力ニ打開ス
 ニ 国内防衛態勢ヲ急速ニ確立ス之カ為特ニ重要ナル生産機関ノ防空施設ヲ促進ス
 ホ 極力日満支ヲ通スル地域及ヒ南方地域ノ自活自戦態勢ヲ促進ス

 之カ為先ツ日,満,支ノ開発ヲ重視ス

3.世界各国ノ動向ヲ注視シツツ,作戦ニ呼応シ左ノ対外施策ニ依リ世界政局ノ変転ニ対処ス

 イ 「ソ」ニ対シテへ,中立関係ヲ維持シ更ニ国交ノ好転ヲ図ル尚速カニ独ソ間ノ和平実現ニ努ム 

 「ソ」の腹については完全に読み違えています。

 ロ 重慶ニ対シテハ,速カニ統制アル政治工作ヲ発動シ支耶問題ノ解決ヲ図ル之カ為極力「ソ」ノ利用ニ努ム
 ハ 独ニ対シテハ,緊密ナル聯絡ノ下ニ共同戦争完遂ニ邁進セシムル為凡有手段ヲ講ス 但シ日ソ戦ヲ惹起スルコトナシ
  
万一独カ崩壊若クハ単独和平ヲ為ス場合ニ於テハ機ヲ失セス「ソ」ヲ利用シテ情勢ノ好転ニ努ム 

 「ソ」頼みの姿勢、これだったんですねえ。

 ニ 大東亜ノ諸国家諸民族ニ対シテハ,其ノ民心ヲ把握シ帝国ニ対スル戦争協力ヲ確保増進スル如ク強力ニ指導ス
  比島ニ対シテハ,比島大統領ノ希望ヲ容レ適時米英ニ対シ参戦セシム
  将来東印度ア独立セシムルコトヲ成ルへク速カニ宣明ス
 ホ 対敵宣伝謀略ハ,一貫セル方針ノ下ニ組織的且ツ不断執拗ニ之ヲ行ヒ,其ノ重点ヲ我カ戦争目的ノ闡明(せんめい)並ニ米英ノ戦意喪失,米英ソ支ノ離間ニ指向スルト共ニ敵側ノ政謀略攻勢ニ対シテハ機ヲ失セス之ヲ破摧(はさい)ス      

 (『日本外交年表並主要文書』下より)

 敵の戦略は島伝いに飛び飛びにやって来ましたね。こちらは占領した大小の島々すべてに小数の兵力を張りつけました。根本的に作戦が間違っていたのか、それを読んだ敵が利口だったのか・・・多分 後者だったのでしょう。

 http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/sennsousidoutaikou.htm

窓からの眺め-2

 〜〜ともあれ、目下、モーレツな風とモーレツな冷たさ〜です。

 
 -----それがあって、デジカメでの写りの良い事よ〜。

 目一杯ズームアップして写した 遥か彼方の給水塔です。
 画像には何の乱れもありませんね。

窓からの眺め


 天気晴朗なれど風強し-------ここのところ、毎日それを繰り返している感じがしますね。

 とにかく、それがため簡単に散歩へ-----と、そういかないのが辛いところです。

朝一番

 
 途方もなく“冷たい”朝-------まあ〜まだ2月ですから当然でしょうが-----。
 空の雲も いかにも冷たそうですなあ〜。

2012年2月26日日曜日

「東洋のスイスたれ!」-2

 
  当時の、ダグラス-マッカーサー元帥

「東洋のスイスたれ!」本日現在のGoogle検索結果。

 ○検索   302.000件
 ○画像検索  25.200件

 結構、これだけの数値が出るわけですから、現在も、それなりに、生きているフレーズと云ってよいのかも知れませんね。
 ----------ちょっと信じられない数値ではありますが〜〜、
 

「東洋のスイスたれ!」

 以下は、2008年.07月に載せた「小さな論調」の中からの一編です。

「東洋のスイスたれ!」
-----あれは一体何だったのだろうか。かっての日本の進路はそうだった筈だったが・・・・----。

 戦後、真っ先に日本中に溢れた国民的なスローガンは「(日本は)東洋のスイスたれ!」でした。
 平和を愛し、戦争は永久に行わず永世中立を守る事。乏しい資源を有効に利用するため大型の艦船や航空機の
生産を廃し、時計やカメラ等の日本人が得意とする産業を振興させる事・・・・等々、と、それはそれは、高々と
理想を掲げた素晴らしいスローガンだったのです。

 「東洋のスイスたれ!」----ご年輩の方々には ひと際なつかしく響く言葉ではないでしょうか。
当時、あれだけ声高に叫ばれていたのですから、本来ならば 今もって日本は永世中立を守っていて然るべき
だった筈です。又、乏しい資源を有効に使うのであれば、膨れ上がった輸入品を抱えて身動きの取れないブタのよう
な日本国民は生まれて来なかった筈です。更にアメリカの尻馬に乗って自衛隊を海外派遣するという愚挙も行わない
筈です。
 この状態では実戦参加はもう目の前だと申し上げてかまいません。制度疲労を生じている国の仕組みからは平和の
展望は見えてきません。
 本来の日本はスイスのような平和で小さな国を目指して頑張る筈だったのにどうしたわけでしょうか。

 世の中はその都度変わっていくのだから国の方針もそれにつれて変わっていって然るべきだ---と、確かにその
理屈には筋が通っています。だとしたら「国是」と申す国家のポリシーは融通無碍なもの、つまり時に応じて変幻
自在に変化するもの----それでもOKなのだとなります。

 だからこそ「天皇陛下万歳!」が急展開して「マッカーサー万歳!」になったというのでしょうか。国家としての
座標のブレが大きすぎると思いませんか。どうでしょうか。
 ならば、「スイス」の代わりに「日本は東洋のアメリカたれ!!」と入れ替えて称した方がスッキリしたかも知れ
ません。
 少なくとも「スイス」と叫ばれたのは、1945年からたった5年間。1950年に朝鮮戦争が始まった事で日本に警察
予備隊が出来、それが、あっと云う間に保安隊、そして自衛隊、となって「スイス」はいつの間にか「アメリカ」
に取って変わられてしまったようです。

 「スイス」が消滅した事を嘆いているのではありません。国家としての座標に「ブレ」のみならず「ズレ」が亦
大きい点を申し上げたいのです。

 本家の「スイス」は現在でも当時のままの「スイス」。「アメリカ」も変わっていません。変わったのは
「ニホン」です。
 私のこれまでの人生で、国のポリシーに大変換は何回あったろうか。詳しくは省略しますがとにかくコロコロと
目まぐるしく変わっているとの印象が強くあります。

 世界の情勢は常に変化していくのだから、国家の基本的な針路もそれに合わせてその都度変えていかねばならない
のだ-------そんなカメレオンみたいな、バカなポリシーってあってはならない筈です。貴方は一体どう思われる
でしょうか....。

●yahoo検索 東洋のスイス140万件

●google画像イメージ検索と件数 東洋のスイス 2.850件 

 ※ 「東洋のスイス」----これで検索すると、日本の精密産業の地 長野県諏訪地方 が多数出てきます。
「東洋のスイス」のかけ声はいつのまにか矮小化され、小さな地方の単なる代名詞に落込んでしまっています。
(2008.07) 

散歩道から2-26-2


 「まる」を連れての散歩も、今日は猛烈な寒さ〜〜予定の半分程度で撤退してオワリとしました。

 載せたのは、途中での、公団 団地 の建物を改造している現場-----これによって時代にマッチする新しい団地が蘇ると思いますよ。

 --------とにかく 寒くて〜 冷たい!冷たい!〜今日の散歩でした。

散歩道から2-26

枯れ木?〜。
 
 幹は、腐った結果の “ ズン胴 ” でありながら、よくぞまあ〜立っておれるもんだと感心の極みですが〜〜。

 
 それでなお、枝々は、花を咲かせんばかりの、小さな蕾で、さもさも賑わっていましたね〜。

 これぞ、まさに “ 生きる ” --------その姿でしょう!〜〜。

モンテクリスト伯(岩窟王)


 作は、アレクサンドル・デユマ。

 この本を手にしたのは中学生の時でした。
 大冊です。
 ずしりと堪えるような重さに、子供心ながら一種の恍惚感というか陶酔感みたいな感情(戦慄?)が走ったのを覚えています。

 岩窟王の訳本は沢山あると思うのですが、終戦後すぐの頃ですから、多分大正年間(又は明治?)に出版された本ではなかったかなと思われますね。

「なんとか全集」に含まれていたものです。立派な本でした。

 その本についてどれだけの事を覚えているか---かなり怪しいモノがありますが・・・・。
 当時の文学作品は、現在のとは多少違っていて、文体が講談調というのか落語調というのか、話芸的な表現であったような記憶があります。 
 岩窟王の翻訳者は誰であったのか、今思うに黒岩涙香だったと思われますが。
 
 然し、名調子の文体であったかどうか、それを判断出来る年令では勿論ありませんでした。
 ただ、やたらと漢字が、それも超ムヅカシイ漢字が出て来るので、確かに閉口したのですが、ストーリーを追いかけるのに格別に邪魔であった
という記憶は残っていません。
 漢字の意味を踏まえて読んでいくのではなく、多分に調子で読んでいくので、漢字の難易度はそれほど気にならなかったのだと思います。

 物語りの主人公は「エドモン・ダンテス」。然し、その本では、なんと「団・太郎」と、日本名に改めてありましたね。

 考えればおかしな訳し方で、現在では全く有り得ない訳し方。但し、当時は別に不思議でもなんでもなかったですよ。

 類似の小説は他に何編か読んだ覚えがあったので「あ、又これか。」と軽く受け取って済ませていました。

 巴里とか倫敦とか亜米利加とか、日本名ではないにしろ日本読みですべて統一されていたので、それでよしとした時代背景があったもの。

太郎君が巴里で仏蘭西人になって活躍するなんて、ステキではありませんか。

 今でもそう思いますよ。--ただ、登場人物すべてが日本名であったかどうか、ちょっとそこまでの記憶はありませんね。

 読み出してすぐ、のめり込みました。

 テレビや動画、劇画、そしてマンガ----それらが溢れている昨今と違って、当時の分厚い書物は場合によりけりですが子供にとっても生活必需品

でしたね。

 とにかく夢中になって読みふけったのを覚えています。

 この本には哲学とか思想とかの難しい問題は入っていません。いうなれば紙芝居の延長線上にあるような単純なストーリーですよ。

 子供の頃いじめられた男が大きくなっていじめた男達にシッペ返しをするような話ですから、スカッとするハナシ・・・・。

 覚えているストーリーは下記のようなもの〜。

 ---太郎君の結婚式のその日、謀略によって太郎は捕らえられ牢に入れられてしまいます。とんでもない長い期間の牢獄生活が続きました。
 ある日、となりの牢屋に一人の老人がいるのに気が付いて、秘密裡に会うようになりました。

 太郎はその老人から様々な事を教わり知らされます。

 やがて老人が死ぬと同時に太郎は脱獄を計り、成功します。

 老人から教わった宝の島で膨大な宝物を見つけ、その財力をバックにして名前を伯爵の名に変え、かっての土地に戻って来て、敵の紳士達を
次から次へと葬り去っていきます。

 最後は若い娘と一緒に地中海のどっかの島に向かうところで終わりになっていました。

 伯爵が昔の太郎である事は誰にも知られず最後までそれで押し通せたのですが、たった一人気が付いていた者がいました。
それは、かっての結婚する筈だった女性です。
 その女性は敵の紳士と結婚し、すでに青年になった息子(アルベール大尉?。)もいたのですが、伯爵は、その青年だけは殺す事が出来ずに、
見のがしてやった----とかなんとか・・・・
 そんな筋書きであった記憶があります。

 今、覚えているだけの内容と云っても、それで精一杯です〜。

2012年2月25日土曜日

スカイツリー


「スカイツリー」----- この名称がおかしくないのか、ふと、そんな事を思ったのですが。

 直訳では「空の樹」で、それはそれで多くの日本人には通じるとは思いますが----但し、それはあくまでも一部の者に対してだけで、中には「スカイ吊り」こう思う人も稀ではないでしょうね。

 つまり、そうなると、それの意訳は『 る〜塔 』、-------こうなりませんか?!〜。

 但し、むしろ この方が 、壮大な?!名訳(迷訳?)だと思うのですが、いかがでしょうか。

内裏雛の飾り方-2


 
 ここでの天皇皇后の取り上げ方が正式で、天皇が向かって右、皇后が左となります。

内裏雛の飾り方


 
 
 天皇皇后の位置
 内裏雛を飾る場合では〜。

 「天子南面して東に座す」という、古来よりの朝廷の儀式に習いに従って------、
 紫宸殿を背にして左が上位とする飾り方。
 それによって、雛壇を背にして左側(向かって右)にお内裏様(男性)を飾る。
 これが本来の飾り方です。

 天子南面に於いては日の上る東側に天皇、皇后は、天皇の最後を見届ける意味に於いて日の沈む西側に位置する〜

 -----これが、その由来。 

 現在は、向かって左が天皇、右が皇后、と大体がその並びですね。これでは、昔の内裏雛と逆で、西洋方式です。
 このようなケースでは、殊更に西洋方式に拘らず、純日本方式の方がサマになる感じがしますけれどね。

 天皇は常に向かって右に〜〜、そうでないと、いざとなって皇后を守るためには刀が使えません!ヨ!----- 。

散歩道から2-25


 
 朝の散歩は必須条件-----これがあるからですよ。
 まあ〜これが済んで、ひと安心〜〜と云ったところ------。

雨滴


 外は、しとしとと降る2月の雨〜冷たそうですなア〜〜。

 
 ベランダの、並んで垂れている手すりの雨滴〜〜〜。

 
 よく見ると、透明体と、非透明体 が存在する不思議-----理由が不明ですね。

窓からの眺め

 
 窓の外は、この通り しとしとと降る雨です。
 -------その雨も いかにも 冷たさそう ですなあ〜。

2012年2月24日金曜日

散歩道から2-24-3


 
 共に晴れている西空の方〜。

 前に、いつであったか書き込みしてあるのですが、このへん一帯は、南北に長い舌状の台地の上で、その台地の両サイドに川が流れている------その川の上空は常に晴れている、と、そんなリクツだったのですが、ご覧の通り、その方面(載せたのは西空ですが)は常に晴れているのですよ。

 いずれにしろ、今日の散歩は これを以てオワリです〜〜。