2011年5月14日土曜日

インパール作戦-2

 

 
 この作戦については、別途、前にも載せましたが(何度でも載せたいくらいですね)。

 1944年(昭和19)一~七月、日本軍が北ビルマ(現ミャンマー)からインド北東部インパールに進攻を企図した作戦。無謀な計画のため日本軍は大敗、ガダルカナル以上の惨状を呈した。

 
後年聞き及んだわけですが、惨澹たる敗北で、無惨そのものの状態でした。

 勿論、当時も、これに関する新聞記事は連日のように出ていましたね。ただ、切り抜いて張り付ける程のビジアルな写真など載っていなかったので、記事として切り抜いた記憶はありません。

加えて、いつ頃からだったか、ピタリと記事が出なくなりましたよ。おかしいとは思いましたが、それには裏事情があったとは うすうす感じていたにしろ、これほど見事な負けイクサになっているとは信じてもいませんでした。
     

 以下、戦況の概略顛末。
   
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 第二次大戦での戦闘の中でも特に 「敵を知らず己を知らず」 の典型のような作戦が、 ビルマ方面軍第十五軍司令官牟田口廉也が行ったインパール作戦である。
 
 昭和十九年三月、制空権もなく食料・弾薬の補給もないままに、インド東部のインパールを急襲するため、 配下の師団長たちの反対をも押し切って、この作戦は進められた。

 雨期に入った豪雨と泥濘の中、三千メートル級のパトカイ山脈を横断し、 それでも一時は、インパール後方のコヒマまで突入したが、堅固な守備陣に阻まれたまま、 弾一発、米一粒の補給もなく、飢餓とマラリヤのため戦闘力は失われてしまう。

 牟田口はただ叱咤電報を打ち、遂には、配下の三人の師団長たちを解任するが、 大勢を変えることはもとより不可能で、七月に入ると渋々に撤退命令を出す。

 しかし、以後の敗走は悲惨を極め、 幽鬼のようになって退却してゆく道には瀕死の兵士や息絶えた兵士が累々と横たわり、地獄さながらの凄惨さであった。

 兵士たちはこの道を靖国街道と呼んだ。 この作戦における死傷者は七万二千を数え、生き帰った者は一割にもみたなかった。 「第一線部隊をして、ここに立ち至らしめたるものは、実に軍と牟田口の無能のためなり」、 これは、山内第十五師団長が前線から打電した悲痛な電文である。 それは、敵を知らず己を知らず、ただ大和魂のみを叫ぶ牟田口廉也に対する怨念の電文である。

 ※ 蛇足ながら、後年、日常的な会話の中で 絶望的な見通し が予測された場合などで使われる自虐的な言葉として、この「インパール作戦」の名が 使用されるケースが多かったですね。
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 改めて、そんな目で地図を眺めてみたのですが「アキャブ」、この名前覚えています。当時、日本軍は、このアキャブ飛行場を爆撃した筈。「マンダレー」、これも聞き覚えがありますね。但し、そこも飛行場だったのか激戦地だったのか、そこまでの記憶はありません。

 以下はネットから。

 牟田口廉也(1888-1966)
 日本帝国陸軍中将

「撃つに弾なく今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓の為に戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして、此れに立ち至らしめたるものは実に軍と牟田口の無能の為なり」(第十五師団山内正文師団長)

「牟田口司令官は、 死んだ兵隊たちに誠にすまなかったと、頭を下げたことは死ぬまで一度もなかった」 (古田中陸軍大尉) 「昔から死ぬ、死ぬといった人に死んだためしがありません。司令官から私は切腹するからと相談を持ちかけられたら、幕僚としての責任上、一応形式的にも止めないわけには参りません。

 司令官としての責任を真実感じておられるなら、黙って腹を切って下さい。誰も邪魔したり止めたり致しません。心置きなく腹を切って下さい」
(第十五軍藤原参謀、切腹するつもりだがと相談されての返答)

 帝国陸軍が産んだ伝説的な将帥であり、その存在そのものが陸軍の人事、教育、組織の欠点を具現している人物。それが牟田口です。近代戦への理解も無く、組織運営もろくにできず、しかし学業優秀でエリートコースに乗り、どういう巡り合わせか国家の命運を分ける場面に出くわしては最悪の手を打つ。どうやっても弁護のしようがありません。

 戦後も、自分には責任は無いと自己弁護に徹していたと言いますから、どこか壊れていた人なのかも知れません。そんな彼には、部下としてインパールで苦闘し責任を押し付けられて師団長を解任された佐藤幸徳少将の言葉が相応しいでしょう。

 「牟田口は鬼畜だ」と。・・・・覚えているのはこれだけですね。

 写真は、上は現役時代。下は晩年の牟田口将軍。

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