以下は、小学校時代に教わった国語からです。
二十 ひとさしの舞
一
高松の城主清水宗治(しみづむねはる)は、急いで
天守閣へのぼった。
見渡すと、広い城下町のたんぼへ、濁流(だくりゅう)
がものすごい勢で流れ込んで来る。
「とうとう、水攻めにするつもりだな。」
この水ならば、平地に築かれた高松城が水びたしになる
のも、間はあるまい。押し寄せて来る波を見ながら、宗治
は、主家毛利輝元(てるもと)を案じた。この城が落ちれ
ば、羽柴秀吉(はしばひでよし)の軍は、直ちに毛利方を
攻めるに違いない。
主家を守るべき七城のうち、六城がすでに落ちてしまっ
た今、せめてこの城だけでも、持ちこたへなければならな
いと思った。
宗治は、城下にたてこもっている五千の生命うをも考へ
た。自分と生死を共にするといっているとはいへ、この水
で見殺しにすることは出来ない。中には、女も子どももい
る。このまま、じっとしてはいられないと思った。
軍勢には、ちっとも驚かない宗治も、この水勢には、は
たと困ってしまった。
二
さきに、羽柴秀吉と軍を交へるにあたり、輝元のをぢ小
早川隆景(たかかげ)は、七城の城主を集めて、
「この際、秀吉にくみして身を立てようと思ふ者があったら、
すぐに行くがよい。どうだ。」
とたづねたことがあった。その時七人の城主は、いづれも、
「これは意外のお言葉。私どもは、一命をささげて国境を
守る決心でございます。」
と誓った。隆景は喜んで、それぞれ刀を与えた。宗治は、
「この刀は、国境の固め。かなはぬ時は、城を枕に討死
せよといふお心と思ひます。」
と、きっぱりといった。
更に秀吉から、備中(びっちゅう)備後(びんご)の二
箇国を興へるから、みかたになってくれないか、とすすめら
れた時、宗治が、「だれが二君に仕へるものか。」と、しか
りつけるやうにいったこともあった。
かうした宗治の態度に、秀吉はいよいよ怒って、軍勢を
さし向けたのであるが、知勇すぐれた城主、これに従ふ五
千の将士、たやすくは落ちるはずがなかった。
すると秀吉に、高松城水攻めの計を申し出たものがあっ
たので、秀吉はさっそくこれを用ひ、みづから堤防工事の
指図をした。夜を日に継いでの仕事に、さしもの大堤防も、
日ならずしてできあがった。
折から降り続く梅雨のために、城近く流れている足守川
(あもり)川は、長良川の水を集めてあふれるばかりであっ
た。それを一気に流し込んだのであるから、城の周囲のた
んぼは、たちまち湖のようになった。
三
毛利方は、高松城の危ないことを知り、二萬の援軍を送っ
てよこした。両軍は、足守川をさしはさんで対陣した。
その間にも、水かさはずんずん増して、城の石垣はすで
に水に没した。援軍から使者が来て、
「一時、秀吉の軍に降り、時機を待て。」
といひことであったが、そんなことに応じるような宗治で
はない。宗治は、あくまでも戦ひぬく決心であった。
そこへ、織田信長が三萬五千の大軍を引きつれて、攻め
て来るといふ知らせがあった、輝元はこれを聞き、和睦を
して宗治らを救はうと思った。安国寺の僧 恵ケイ を招き、秀
吉方にその意を伝えた。和睦の条件として、毛利方の領
地、備中、備後、美作、因幡、伯耆の五箇国をゆずらうと
申し出た。
秀吉は、承知しなかった。すると意外にも、信長は本能
寺の変にあった。これには、さすがの秀吉も驚いた。さう
して恵ケイに、
「もし今日中に和睦するなら、城兵の命は、宗治の首に代
へて助けよう」
といった。
宗治はこれを聞いて、
「自分一人が承知すれば、主家は安全、五千の命は助かる。」
と思った。
「よろしい。明日、私の首を進ぜよう」
と宗治は答へた。
四
宗治には、向井治嘉(はるよし)といふ老臣があった。その日
の夕方、使者を以って、
「申し上げたいことがあります。恐れ入りますが、ぜひお
いでを。」
といって来た。宗治がたづねて行くと、治嘉は喜んで迎へ
ながら、かういった。
「明日御切腹なさる由、定めて秀吉方から検使が参るでご
ざいませう。どうぞりっぱに最期をおかざりください。
私は、お先に切腹をいたしました。決してむづかしいも
のではございません。」
腹巻を取ると、治嘉の腹は、真一文字にかき切られてい
た。
「かたじけない。おまへには、決して犬死をさせないぞ。」
といって、涙ながらに介錯(かいしゃく)をしてやった。
その夜、宗治は髪を結ひ直した。静かに筆を取って、城
中のあと始末を一々書き記した。
五
いつのまにか、夜は明けはなれていた。
身を清め、姿を正した宗治は、巳(み)の刻を期して、城をあ
とに、秀吉の本陣へ向かって舟をこぎ出した。五人の部下
が、これに従った。
向かふからも、検使の舟がやって来た。
二さうの舟は、静かに近づいて、
満々とたたへた水の上に、舷(ふなばた)を並べた。
「お役目ごくらうでした。」
「時をたがへずおいでになり、御殊勝に存じます。」
宗治と検視とは、ことばすくなに挨拶(あいさつ)を取りかはした。
「長い籠城(ろうじやう)に、さぞお気づかれのことでせう。せめてものお慰みと思ひまして。」
といって、検使は、酒さかなを宗治に供えた。
「これはこれは、思ひがけないお志。えんりょなくいただきませう。」
主従六人、心おきなく酒もりをした。やがて宗治は、
「この世のなごりに、ひとさし舞ひませう。」
といひながら、立ち上がった。さうして、おもむろに誓願寺(せいがんじ)の
曲舞(くせまひ)を歌って、舞ひ始めた。五人も、これに和した。
美しくも、厳かな舞ひ納めであった。
舞が終わると、
浮き世をば今こそわたれもののふの名を高松の苔(こけ)にのこして
と辞世の歌を残して、みごとに切腹をした。五人の者も、
皆そのあとを追った。
検使は、宗治の首を持ち帰った。秀吉は、それを上座にすえて、「あっぱれ武士の手本。」といってほめそやした。
(おわり)
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これで気がついた事は、ムカシの仮名使いの面倒なこと、これに尽きるでしょう〜。
転記するのに凄く苦労しましたよ!〜。
こんなに苦労するとは全く思いませんでしたね。
ただ、我々の小学校時代がそうだったわけですから、今更ながら気の毒だったな、と思うほかありません。
国語古文となると、やはり、もう少し上の、中学、高校 から始めるのがスジだとも思ったりもするのですが?〜。
尤も、現在の状況が判らないので、申し上げようがありませんが-------。
いずれにしても、いくらムカシであったとは云え、これを読んで、ここで腹を切って死ぬ、とは、不合理極まりない結論だ、とは今でも思いますが、いかがでしょうか?。