2012年5月31日木曜日

「星の村〜」





私は子供の頃より“ 星の少年! ” と呼ばれていたもの〜。
結局のところ、多少であれ、その方の仕事を含めて一生を終えるのではないか?〜テな事も考えているのですが〜、それだけに、載せたような記事を見ると、やれやれ〜と他人事ながら ホッとしますね。

東日本大震災と原発の影響で、壊れていた大型望遠鏡の修理が出来て、ようやく観測が出来るようになった-------------との事。

. 以上、今日の夕刊の記事からでした。

池の蛙と〜



池の 蛙  石敢当 共に仲良く、これから“ 大宴会 ” でも始まるのかネ?〜

平林寺


今日は久しぶりに平林寺に行って来ました。
裏手の雑木林の方にも、勿論 出向きましたが、境内の広さに改めて驚いた、と云ったところだったでしょうか。
 それでも、雑木林の中を 一通り廻って来ました〜〜。

 載せたのは、有名な小屋?!ですが、この小屋にしてもキチンと以前からのままの姿でした。

 ともあれ、これ以外であれ、すべてに手入れが欠かさず行われているのが見ただけで判りましたね。

 一方、裏の雑木林は、こんなにも広かったかな、と、首を傾げた程。

 -----------とにかく、いくら歩いてもキリがないと思った広さでしたなア〜。

 写真は大量に?写して来たのですが、まあ〜この一枚のアップだけに留めておきますので〜。

兄は特攻隊員でした(2)

下段のハガキの全文が以下です。
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予科練に行った長兄(T15年生)の同級生の芦野さんから戦争中に頂いた葉書。

彰君、兄ちゃんは立派な 空の神兵 となったのだよ。
兄ちゃんが居なくても悌二君(※ 註:私の次兄)や姉ちゃんの教えに従って
一生懸命勉強しなさい。
其して、何時もニコニコと笑顔で学校へ行きなさい。
来年は六年で彰ちゃんも中等学校だね。
今から準備して頑張って下さい。自分の弟も今二中(※ 註:市内の第二中学校)の
一年生で彰君と非常に顔が似てゐるので君を見る度に
なつかしい思いがします。
自分も日飛(※註:下記に別途書いた。)へ行って一生懸命働いて居ります。
亦十九日は休みですから兄さん(註 :私の次兄)と二人で遊びに来なさい。
其して一緒に真チャン(私の長兄、予科練生)の武運長久をお祈りに千歳山(※ 註:市の郊外にある。)でもよい摩利子天様(註:神社)にでもよいから行きませう。
では母ちゃん姉ちゃんの言ふ事をよく守って勉強しなさい。
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昭和19年5月15日の消印のもの。
 この頃の人々の精神状態は、一見普通のようでありながら、底流には なんとも表現しがたい悲壮なものがありましたよ。
「日飛(当時山形にあった飛行機工場)」で働いていた芦野さんも 結局は志願兵として行ってしまったのでした。聞けば特攻の戦車隊だとの事(但し、戦後無事に帰還して来ましたが)。いずれも皆17~8歳の、まだまだ少年の頃だったわけですよ。
特攻隊の一員として九州 鹿屋飛行場に行った私の兄も いつか申し上げたように帰って来ましたよ。
 (その芦野さんも私の長兄も 現在は いずれも逝ってしまっていない-----遠い遠い昔の話でした。)

兄は特攻隊員でした。



 私の兄は特攻隊員(すめらみくにのもののふ)でした。

 当時さかんに歌われていた予科練の歌「・・・・七つボタンは桜に錨・・・」、この歌に憧れて私の長兄(大15年生)が商業学校4年生?で霞ヶ浦の予科練に応募したのは昭和19 年春頃だったろうか。

 ※「予科練」[ヨカレン]とは正式には「海軍 予科練習所」の略。
よかれん よくわ― 2 【予科練】

〔「海軍飛行予科練習生」の略称〕旧海軍の飛行機搭乗員養成制度。初め横須賀航空
隊内に設置されたが、のち茨城県土浦に独立。小学校高等科卒(乙種)、中学四年修
了者(甲種)を主とする志願制で、厳しい訓練を経て飛行科下士官となった。

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 今思うに、二度と戻って来ない特攻隊員用に、“ 飛んで行くだけの!”---それだけの、残酷な!操縦方法を教えただけだったのかなあ~~。

 兄は山形駅で大勢の“ 歓呼の声 ”に送られて 霞ヶ浦に行ってしまいましたよ。
 暫くして、母親と次兄が 空襲の中を山形市から茨城県霞ヶ浦まで なんとか汽車を乗り継いで面会に行ったのはいつだったでしょうかねえ。然し、その時 既に〇〇基地に向かったとの受付での回答があって、結局会えずに戻って来ましたが・・・・。
 それまでは1~2度手紙が来て、それから先は音信不通。
 家の中では兄貴について話をするのは御法度でしたな。
 次兄が大書して壁に貼った「兄に代わって頑張る」この文字が今でも彷佛と目に浮かびます。

 やがて 終戦となり、兄貴については 家族みんな諦めていた矢先、9月末頃か、その兄貴がひょっこり帰って来ました。キツネにつままれた感じでした----。

 特攻隊として鹿児島県 海軍鹿屋基地で待機中 終戦となったとの事。乗るべきヒコーキが無かった事が幸いしたと云っていました。
 その兄貴は 老いてなお今も健在。
 但し、戦争の事となると黙して語らず現在に至っている。


  ※その兄貴は 06年 3月 一生を全うして 改めて空の彼方に向け旅立ちました。


追記 兄貴の 友人(同級生)の方から当時頂いた葉書です。

兌換券


 高校時代、社会科先生に若くて素敵な青年が着任されました。東京の大学を出たピカピカの先生でした。

 私共の高校は田舎の工業高校ですから全くダサイ学校、それだけに、その先生は惨然と輝いていましたよ。
   とにかく東京生まれで東京の大学を出た・・・・これが“売り”でしたね。

 完全に都会風の雰囲気に加えて、多少大きめの背広姿が似合っていました。ダンデイの極みでした。勿論、話される言葉はきれいな標準語。

 もう その日から圧倒的な人気を勝ち得ましたよ。その先生を神と仰ぐ??生徒も多数現れましたナ・・・。
 放課後、何人かの生徒が集まって、その先生のハナシを聞く・・・・そんな場もあったとも記憶しています。
 
 その先生が私のクラスにも出て来られたのは次の学期からだったか、勿論クラス一同燃えましたヨ・・・。
 万事控えめで、物静かに話されるハナシには説得力がありましたなあ~~。
 
 ・・・・実は、ここまではよいとして、その授業中に、私の耳に届いた先生の言葉の中に「エツカンケン」なる聞き慣れない発音が飛び込んで来たのでした。
 エツカンケン???・・・・

 ------- それって、ダカンケン「兌換券」じゃない?。
 ダカンのダ(兌)は確かに エツ(悦)とは似ていますが 、リッシンベン(たちごころ) がありませんよね。

 ~~ もしかして~あの先生、ホントは、なんにも勉強して来なかったんじゃないの?。
 
 だめだこりゃ・・・・でした。
 東京の大学を出たとは申せ、東京にはワンサと大学はあるし・・・誰かが云っていたのに、先生が出たその大学なら、受験者全員 誰でもが入れる大学なんだと----- ヨ!~・。

 ~~ その先生、どこでどうされたのか、それから しばらくすると辞められたようでしたね。
 人間 誰でも欠点や弱点は持っているもの。敢えてそこまでアレコレ申し上げるつもりはありませんし、時代は多少はドサクサの頃だったので、そのような俄か先生も出て来ても やむを得ない時代だったのでしょう。
 勿論 出身大学が問題ではなくして本人の資質に僅かな隙間があった・・・と その程度だったでしょうが~。


フエルメール


 今朝の新聞からですが、フエルメールでしたね。

 -----と云っても、そのフアンかと云えば、それ程でもありませんが〜。

 ともあれ、いろんなところで  ある画家の作品に お目にかかると その画家の作品が自然に馴染みとなり、記憶に残るようになってしまう------と、そんな範囲でのフアンと云ったところでしょうか。

 申せば、そのクラスのフアンって結構多いのではありませんか?〜。

2012年5月30日水曜日

散歩道から5-30-3


何やら〜 アメリカ、及び フロリダ半島?、------そんな地図に見えましたが?。


 “ 小さな世界 ” と、こっそり申し上げているオモチャの数々、今日も いずれも元気の様子〜。
 上の蛙が見張り役?かな-------じろりと睨んでいましたよ。

いつもは猛スピードで廻っているのに、今日はストップしていましたね〜初めてでした。

散歩道から5-30-2


近くの原っぱ、いつものコースの途中。ここで出すモノを出すのが例ですね。


 切断された木の幹から芽生えつつある新しい芽が数本〜。
 名も知らぬ樹々の、凄い生命力を垣間見る場所------。



屋敷内に ずらりと並ぶ樹々の緑、これなども凄い!と思いますよ〜。

松井秀喜


今朝の新聞からですが、松井秀喜(37歳)------- 彼は まだやっていたのかなあ〜と、ちょっとビックリでした。
 成績が落ちない範囲であれば、続けても別段誰からも、文句は受けないとは思うものの、やはり引け際もあるだろうし、正直 いかがなものかと思った次第でした。

 年長選手と云えば、思い起こすのが、かって阪神タイガースにいた 若林投手で、確か42歳(多分数え年)で現役でしたね。

 ただ、スタンドからは  “ 爺様ア ”!〜〜と野次られていたとか〜それを、頑張れ!〜と受け取るべきか、冷やかしと思うか、多少は心に残ったとかの逸話を読んだ事がありましたよ。
 まあ〜ここで 別に説教を垂れるつもりでもありませんが、若いうちに 矛を収めて、ほどほどにされた方がよろしいのではありませんか?、と、申し上げたい気持ちにもなりましたね。

庭の花





これ等は、単に庭に咲く花〜〜それだけの写真ですが、これ等を撮影すると、とんでもない大きさだったり、極端に小さかったり、意図する大きさに収まった事はゼロですね。
その分、こちらとしては余計な手間が必要とされてしまいますね。

理由はさて於いて、これでは大衆使用者に愛される機種にはなり得ませんよ。

何か、勘違いされてあって、プロ並みの使用者を想定して作っただけの機種ではありませんか?〜〜そう思った次第ですが-----------。


散歩道から5-30-1


この、空の雲〜いつもながらの姿ですが、その  瞬時〜瞬時〜で、まるで、生きているかのように変幻する-------------それが神秘的にも思えるのですよ〜。


 屋根から流れ落ちるような〜〜------。

これら各所で見られるこの花の姿、これってホント、サマになる姿ですよネ。

散歩道から5-30





ここでの放置されたまま?の空き地が、散歩では、シンボリックな場所なのですよ。

それにしても勿体ない空き地とも思うのですが、時代のせいでもあるのでしょう〜〜。

「ひとさしの舞」



以下は、小学校時代に教わった国語からです。






二十  ひとさしの舞

  一
  高松の城主清水宗治(しみづむねはる)は、急いで
天守閣へのぼった。
 見渡すと、広い城下町のたんぼへ、濁流(だくりゅう)
がものすごい勢で流れ込んで来る。
「とうとう、水攻めにするつもりだな。」
 この水ならば、平地に築かれた高松城が水びたしになる
のも、間はあるまい。押し寄せて来る波を見ながら、宗治
は、主家毛利輝元(てるもと)を案じた。この城が落ちれ
ば、羽柴秀吉(はしばひでよし)の軍は、直ちに毛利方を
攻めるに違いない。
 主家を守るべき七城のうち、六城がすでに落ちてしまっ
た今、せめてこの城だけでも、持ちこたへなければならな
いと思った。
 宗治は、城下にたてこもっている五千の生命うをも考へ
た。自分と生死を共にするといっているとはいへ、この水
で見殺しにすることは出来ない。中には、女も子どももい
る。このまま、じっとしてはいられないと思った。
 軍勢には、ちっとも驚かない宗治も、この水勢には、は
たと困ってしまった。

 二
 さきに、羽柴秀吉と軍を交へるにあたり、輝元のをぢ小
早川隆景(たかかげ)は、七城の城主を集めて、
「この際、秀吉にくみして身を立てようと思ふ者があったら、
すぐに行くがよい。どうだ。」
とたづねたことがあった。その時七人の城主は、いづれも、
「これは意外のお言葉。私どもは、一命をささげて国境を
守る決心でございます。」
と誓った。隆景は喜んで、それぞれ刀を与えた。宗治は、
「この刀は、国境の固め。かなはぬ時は、城を枕に討死
せよといふお心と思ひます。」
と、きっぱりといった。
 更に秀吉から、備中(びっちゅう)備後(びんご)の二
箇国を興へるから、みかたになってくれないか、とすすめら
れた時、宗治が、「だれが二君に仕へるものか。」と、しか
りつけるやうにいったこともあった。
 かうした宗治の態度に、秀吉はいよいよ怒って、軍勢を
さし向けたのであるが、知勇すぐれた城主、これに従ふ五
千の将士、たやすくは落ちるはずがなかった。
 すると秀吉に、高松城水攻めの計を申し出たものがあっ
たので、秀吉はさっそくこれを用ひ、みづから堤防工事の
指図をした。夜を日に継いでの仕事に、さしもの大堤防も、
日ならずしてできあがった。
 折から降り続く梅雨のために、城近く流れている足守川
(あもり)川は、長良川の水を集めてあふれるばかりであっ
た。それを一気に流し込んだのであるから、城の周囲のた
んぼは、たちまち湖のようになった。

 毛利方は、高松城の危ないことを知り、二萬の援軍を送っ
てよこした。両軍は、足守川をさしはさんで対陣した。
 その間にも、水かさはずんずん増して、城の石垣はすで
に水に没した。援軍から使者が来て、
「一時、秀吉の軍に降り、時機を待て。」
といひことであったが、そんなことに応じるような宗治で
はない。宗治は、あくまでも戦ひぬく決心であった。
 そこへ、織田信長が三萬五千の大軍を引きつれて、攻め
て来るといふ知らせがあった、輝元はこれを聞き、和睦を
して宗治らを救はうと思った。安国寺の僧 恵ケイ を招き、秀
吉方にその意を伝えた。和睦の条件として、毛利方の領
地、備中、備後、美作、因幡、伯耆の五箇国をゆずらうと
申し出た。
 秀吉は、承知しなかった。すると意外にも、信長は本能
寺の変にあった。これには、さすがの秀吉も驚いた。さう
して恵ケイに、
「もし今日中に和睦するなら、城兵の命は、宗治の首に代
へて助けよう」
といった。
宗治はこれを聞いて、
「自分一人が承知すれば、主家は安全、五千の命は助かる。」
と思った。
「よろしい。明日、私の首を進ぜよう」
と宗治は答へた。

 宗治には、向井治嘉(はるよし)といふ老臣があった。その日
の夕方、使者を以って、
「申し上げたいことがあります。恐れ入りますが、ぜひお
いでを。」
といって来た。宗治がたづねて行くと、治嘉は喜んで迎へ
ながら、かういった。
「明日御切腹なさる由、定めて秀吉方から検使が参るでご
ざいませう。どうぞりっぱに最期をおかざりください。
私は、お先に切腹をいたしました。決してむづかしいも
のではございません。」
腹巻を取ると、治嘉の腹は、真一文字にかき切られてい
た。
「かたじけない。おまへには、決して犬死をさせないぞ。」
といって、涙ながらに介錯(かいしゃく)をしてやった。
 その夜、宗治は髪を結ひ直した。静かに筆を取って、城
中のあと始末を一々書き記した。

 いつのまにか、夜は明けはなれていた。
 身を清め、姿を正した宗治は、巳(み)の刻を期して、城をあ
とに、秀吉の本陣へ向かって舟をこぎ出した。五人の部下
が、これに従った。
 向かふからも、検使の舟がやって来た。
 二さうの舟は、静かに近づいて、
満々とたたへた水の上に、舷(ふなばた)を並べた。
「お役目ごくらうでした。」
「時をたがへずおいでになり、御殊勝に存じます。」
宗治と検視とは、ことばすくなに挨拶(あいさつ)を取りかはした。
「長い籠城(ろうじやう)に、さぞお気づかれのことでせう。せめてものお慰みと思ひまして。」
といって、検使は、酒さかなを宗治に供えた。
「これはこれは、思ひがけないお志。えんりょなくいただきませう。」
主従六人、心おきなく酒もりをした。やがて宗治は、
「この世のなごりに、ひとさし舞ひませう。」
といひながら、立ち上がった。さうして、おもむろに誓願寺(せいがんじ)の
曲舞(くせまひ)を歌って、舞ひ始めた。五人も、これに和した。
美しくも、厳かな舞ひ納めであった。
 舞が終わると、
 浮き世をば今こそわたれもののふの名を高松の苔(こけ)にのこして
と辞世の歌を残して、みごとに切腹をした。五人の者も、
皆そのあとを追った。
 検使は、宗治の首を持ち帰った。秀吉は、それを上座にすえて、「あっぱれ武士の手本。」といってほめそやした。

(おわり)
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これで気がついた事は、ムカシの仮名使いの面倒なこと、これに尽きるでしょう〜。
転記するのに凄く苦労しましたよ!〜。
こんなに苦労するとは全く思いませんでしたね。

ただ、我々の小学校時代がそうだったわけですから、今更ながら気の毒だったな、と思うほかありません。
 国語古文となると、やはり、もう少し上の、中学、高校 から始めるのがスジだとも思ったりもするのですが?〜。

 尤も、現在の状況が判らないので、申し上げようがありませんが-------。

 いずれにしても、いくらムカシであったとは云え、これを読んで、ここで腹を切って死ぬ、とは、不合理極まりない結論だ、とは今でも思いますが、いかがでしょうか?。


2012年5月29日火曜日

祇園精舎


●google検索と件数 祇園精舎の鐘の音  7810件   318.000
●google検索と件数 祇園精舎の金の声  1650件   150.000
●google検索と件数 祇園精舎の金の音  1650件   3.103.000
●google検索と件数 所業無常の響きあり  119件        254.000

. (左   2008年7月 検索数)  (右  2012年5月検索数)
 ※ 別に、それ程の意味もない比較ですが〜。
   どれが正しいかご存知でしょうか?------。

    祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり  現在検索件数 159.000件


テスト


 昨日の新聞からで、スカイツリーの上に虹が出たとのニュース記事。
 但し、ここでは、相変わらずになりますが、アップのためのテストです。

 目下のところ、アップには、いろいろと問題を抱えていますので、折りをみて、これからも時折テストを行うつもりですので〜。

窓からの眺め



  今朝の 窓からの眺め です。景色そのものは全く変わっていませんが〜〜。
 ただ、こちらとしては、デジカメが新しいのを使っているので、これ迄とは全く違った感覚で対応している感じですね。

 とにかくデジカメを変えただけで、これ程迄に何もかも変わってしまうのか、半ば呆然とする時も結構ありますよ。加えてPCでの操作も大きく変わりましたしね。

 まあ〜トシが若ければ、それはそれなりに対応出来るのだとは思うのですが、なにせ、こちらは〇〇歳間近のロートルでござんすよ!〜。

   --------- いろいろと堪えますなア〜〜。

2012年5月28日月曜日

窓からの眺め



 いつもの「 窓からの眺め」ですが-----。

 と云ったところで〜〜ともあれ、デジカメを変えた-----との結果は、結構大変だ 、と、それをいささか身に滲みて感じ取っているところかナ〜〜。

 何が大変か、と云っても、これこれで〜〜云々、と一概には云えないにしろ、とにかく大変だ、 との認識に変化はなさそうですね。

散歩道から5-28


雨も上がって、やれやれ でしたね。


先ずは、草っパラに出向く〜と-------。


帰り道は、いつものコースで〜。


我が家は遠いようで、すぐそこですもんね。

雨が上がった〜


 雨が上がりましたね。
 薄日も射し始めています。

 5月との月日によるのかどうか、天候の変わり方が急激なのに一寸驚いている次第〜。
 いずれにせよ、雨が上がったので、良し〜とするのが当然でしょう。

風神雷神


「風神雷神」には二作の名画があって、俵屋宗達、尾形光琳、が、それですね。
 ただ、いきなり どちらがどうだ〜と聞かれても、アレコレは云えませんよね。

 以下、参考迄ですので〜〜。



俵屋宗達

尾形光琳

一天俄にかき曇り-2


轟音と共にやって来た雷雨も、何分もしないで、ピタリと止みましたね。
-------- ただ、何がしかの残り雨?は、暫くは続くような感じですが〜。

一天俄にかき曇り


一天俄に かき曇り〜〜と思った矢先、轟音と共に雷雨がやって来ましたね。
 すぐ晴れるものやら、続くものやら、不明ですが〜〜。

テスト写真-3

「不沈戦艦」とすべきところを「普沈〜」「浮沈〜」とか、見っともないエラーが重なって申し訳ありません〜〜。
 重ねて訂正申し上げますので〜。

テスト写真-2

下段の説明文の中で〜〜。

「不沈戦艦」とするべきところを「普沈戦艦」とありますね。
訂正させて頂きますので〜〜。

テスト写真


イギリスの戦艦「プリンスオブウエールズ」。
浮沈戦艦と豪語していた戦艦でした。



大東亜戦争開始間もなく、マレー沖で日本軍によって撃沈されましたね。
描いた画家は、当時の挿絵の神サマ??松添健 画伯でした。

それがあって、その時の絵は何十枚?描いたものやら。
その頃の私は、小学校3年生でしたね。

 以上、これらもテストを兼ねてのアップですので〜。

テスト写真


 とにかく、画像アップでの方式の変更があったらしく、目下のところは、その複雑怪奇な 手順に、ほとほと参っている次第ですね。
 載せた写真には、特別の意味はありません。
 写したのが無事アップ出来るかどうか、それだけの写真ですので〜。

「国体護持」


 大平洋戦争の折り返し点とも目されたアッツ キスカ島での日本軍玉砕の写真。
 この時の敗北以来、勝ち運に乗って アジアを席巻した大日本帝国軍は、雪崩の如く崩れ落ちていった〜これこそが大東亜戦争の顛末でした。

 以来、急速に和平への道が問われ、それを論じる様々の論が出たのでしょうね。
 ともあれ、その根底にあったのは、国民の苦渋よりも何よりも優先されたのが、以下の「国体護持論」だったとの事〜。

国体護持 †天皇制の核心である天皇の地位・権威・権能を保全すること。
• 太平洋戦争末期,連合国との講和を模索する重臣・宮中側近勢力は,国体護持を条件に戦争終結をめざした
• 国体護持の異なる理念グループ
• 昭和天皇の地位の安泰を最優先にするグループ
• 天皇の退位を求めても天皇制の保全を図るべきだとする近衛文麿らのグループ
• しかし,天皇の権威が失墜しないうちに<聖断>により戦争を終結し,天皇とそれに連なる国家権力の主要部分を温存しようとする議論では共通する。




霜柱


 これ迄の画像のストックを眺めていたら、こんな画像が出て来ました。
 厳寒の頃の一枚でしょうね。

 現在の季節からは、それ程云々することも無いとは思うものの、ホント真夏になれば、思わずも声を上げる一枚でしょうね〜〜。

シルバーですので〜。


 画像アップの方法に限らず、とにかく PC アップから始まって、いろんな所作に至る迄、
 PC事情が、すべてが大きく変わってしまっているので、我等の年齢層にはかなり過酷な変更と受け取るほかありませんね。

 まあ〜何度か、繰り返す事で覚える外、対応策が無いので、とにかく大変です。
 失敗はさておいて、それはそれでヤムを得ないとは云え、完全習得迄、大変な時間を要する----------これがシルバー族にはキツイところかな。

いくらヒマな日常とは申せ、それが故に放棄してしまう仲間も結構多いのではないかな、と要らぬ心配をしているところ〜。

 載せたのは、単なるテストのためのもの、とは申せ、これなどもバカになぬ時間の浪費?への出発点なのですよ。

「石敢当」続き



前に、庭の「石敢当」の写真を入れましたが、お二人が揃っていなかったので、
改めて、お二人------------それぞれを入れさせて頂いた次第〜〜。

窓からの眺め

 今朝の窓からの眺め、で、別に変わったような箇所もありませんね。

--------------これは、単に、画像アップのための試行用です。
カメラが変わったとの事だけで、目下、結構混乱しているのですよ。

2012年5月27日日曜日

池の住人


我が家の夜の池、です。

そもそものハナシ---------------ここには〜〜、
蛙の聖人?に加えて、小人の住人〜それらが現在 住んでいるようですね。

以前は、もっと変な小父さん風の輩〜など 覚えている人物も多いとは申せ、
現在の、蛙の聖人、小人の住人、それだけで、もう申す事もありませんね。

なにせ、彼等の寿命は各々百年単位〜それで数えているとの事ですから------。