誰もがみんな 知っている
月光仮面の おじさんは
正義の味方よ 善い人よ
疾風のように 現われて
疾風のように 去って行く
月光仮面は 誰でしょう
月光仮面は 誰でしょう
※ 今でこそ、東条英機大将の見解に誤りがあった・・・と申しても無益なハナシですが、参考までにその頃の彼の判断を検証してみました。
戦争指導の大綱
敗色濃厚な状況下の1944(昭和19)年8月19日、天皇臨席の下に開かれた最高戦争指導会議は,以下のような「世界情勢判断及戦争指導大網」を決定、あくまでも聖戦完遂の方針を確認した。
世界情勢判断
今後採ルへキ戦争指導ノ大綱
帝国ハ,昭和18年9月決定ノ「今後採ルへキ戦争指導大網」ニ基キ,米英必死ノ反攻ニ対シ戦争目的ノ完遂ニ邁進シソツアリクルモ,其ノ後ニ於ケル世界情勢ノ推移ニ鑑ミ,立ニ当時ノ世界情勢判断ニ所要ノ修正ヲ加へ昭和19年末頃ヲ目途トスル情勢ノ推移ヲ観察シ,戦争指導ノ方策確立ニ資セントス
第1節 東亜ノ情勢
敵ハ,帝国ニ対シ短期終戦ヲ目途トシ各方面相策応シツツ組織的総攻勢ヲ続行スへク,特ニ本土空襲及ヒ本土卜南方地域トノ分断ヲ目的トシ太平洋及ヒ大陸方面ヨリスル攻勢作戦ニ依リ戦局ノ急速ナル進展ヲ企図スへシ,又右戦局ニ伴ヒ本土上陸ノ機ヲモ窺フコトアルへシ尚敵ハ,其ノ武力攻勢ニ策応シ政謀略ヲ益々激化シテ我カ戦意ノ喪失ヲ企図スルト共ニ大東亜諸国家諸民族ノ対日離間ヲ激化スへシ
1.本土空襲
帝国本土ノ生産設備,交通施設及ヒ主要都市ノ徹底破壊ヲ以テ我カ戦意ノ喪失,国力ノ低下,国民生活ノ混乱ヲ企図シ併セテ本土上陸作戦ノ機ヲ作為セントスル敵ノ空襲企図ハ,支那及ヒ太平洋基地ノ整備卜機動部隊ノ活動トニ依リ概ネ8月以降逐次連続執拗且ツ大規模ニ実施セラレ,其ノ空襲被害ノ帝国戦争遂行力ニ及ホス影響ハ軽視ヲ許ササルモノアルへシ
※ まあ~~分かってはいたが、どうにもならなかった・・・・これだったのでしょう。
2.海上交通破壊
今後敵ノ我カ海上交通破壊作戦ハ,在支航空部隊ノ活動卜相俟ソテ南西諸島,比島方面ニ対スル潜水艦ノ集結使用,機動部隊ノ挺身行動等ニヨリ益々活発化シ船舶ノ被害ノ、増加スへキモ,比島及ヒ南西諸島方面ニ対スル敵航空基地獲得ノ企図達成セラレサル限リ本土卜南方地域トノ海上交通ノ、概ネ維持シ得へシ
※ 敵はサイパンだけでもで充分でした。それを可能にしたのがB-29でした。
3.太平洋方面 中部太平洋方面ノ敵ハ,随時我カ艦隊トノ決戦ヲ企図シソツ,マリアナ及ヒ西部カロリンノ要衝ニ海空ノ基地ヲ推進シ頼太平洋方面ヨリノ進攻ニ策応シ,比島及ヒ南西諸島方面ヲ攻略シ帝国本土卜南方地域トノ交通遮断ヲ企図スルナラン,右来攻ハ概ネ10月頃迄ニ実現スルノ算大ナリ
※ 敵艦隊は我が艦隊との決戦など毛頭希んではいなかったようでいたが?。空母等による決戦の意図は見られず、長距離爆撃機Bー29による本土爆撃のみでしたね。その最初の空爆は、なんと中国の 成都 からでした。
空母からの艦載機が飛んで来たのは、状況が決定的になってからのようでしたね。
此ノ間小笠原方面及ヒ千島ノ要地攻略オモ企図スへシ
4.緬面及ヒ印度洋方面
北緬並ニイムパール方面ニ対シテノ,雨期中卜雖モ依然圧力ヲ加重スへク持ニ印支ルート啓開ニハ全力ヲ集中スへシ,又太平洋方面ノ攻勢卜策応シ有力ナル機動部隊ヲ以テスルアンダマン,ニコバル等ニ対スル上陸作戦トスマトラ油田地帯ニ対スル空襲ハ其ノ実現性大ナリ
※ インパール作戦は悲劇でした。全滅です。それは敵の攻撃からではなく、あまりにも無謀な作戦と、加えて いかにも厳しかった自然条件についての認識不足からだったような気がします。
5.支那方面
重慶ハ,極力抗戦ニ努メ持ニ南支部方面航空基地ノ維持ヲ図リツツ我カ奥地進攻ヲ阻止スルト共ニ,印支地上ルートノ啓開作戦ヲ執拗ニ継続シ爾後戦力ノ恢復増強ニ伴ヒ反攻ヲ実施スへシ又米,支空軍ノ増勢ノ、依然継続スへク,本土及ヒ鮮満北支等ノ要域ニ対スル空襲並ニ海上交通ノ破壊企図ハ愈々増大スへシ
尚在ソ及ヒ外豪ヲ適スル援蒋ルートノ啓開ニ関シテハ「ソ」ノ今後ノ動向トモ関聯シ警戒ヲ要スへシ
6.大東亜諸邦ノ動向
大東亜諸邦ハ,満洲ヲ除キ現情勢ニ就テ既ニ其ノ対日協力的態度消極化ノ兆アリテ,今後東亜並ニ欧洲ニ於ケル枢軸側戦局ノ推移卜敵側政謀略ノ激化卜相侯ツ政府及ヒ民衆ノ動揺,治安ノ悪化等ノ、漸次増大スへシ,就中支那ニ於ケル我カ占拠地域民衆ノ対日非協力化,比島民衆ノ離日敵性化,奉国内ノ動揺等ヲ逐次招来スルノ虞大ナリ
印度仮政府ノ対日動向ニハ変化ナカルへキモ,印度ニ於ケル英印相剋ノ度ハ戦局ノ推移ニ応シ上下スへシ
第2節 欧洲ノ情勢
欧洲戦局ハ,米英軍ノ北仏上陸及ヒソ軍ノ夏季攻勢開始ニ伴ヒ漸ク本格的決戦段階ニ突入シ其ノ大勢ハー般ニ独側ニ不利トナリツツアリテ今後独側ニシテ政戦局ノ転機ヲ有利ニ把握セサル限り其ノ戦争指導ハ愈々困難ノ度ヲ加フルニ至ルへシ
1.独ソ戦争
独ソ戦線ニ於テハ,「ソ」ハ今後主トシテ政略的見地ニ基キ自主的作戦ヲ指導スル算大ナルモ本年後期ニ於テノ、失地ノ大部ヲ恢復スルノミナラス,更ニ西部波蘭並ニ東プロシヤ及ヒ洪牙利ノー部ニ侵入スルト共ニ羅馬尼及芬蘭ノ大部ヲモ掌握スルノ事態ヲ見ルコトナシトセサルへシ
2.西欧第2戦線
西欧2戦線方面作戦ノ成否ハ,独ノ運命ニ最モ重大ナル影響ヲ及ホスへク,独ニシテ今後好機ニ投シタル反撃ヲ実施スルカ或ハ米英軍ノ補給ヲ充分ニ遮断シ得ル場合ニ於テノ、戦勢ノ挽回可能ナルへキモ然ラサル場合ニ於テノ、米英戦線ハ逐次内陸ニ拡大スルニ至ルへシ
3.独ノ傘下諸邦並ニ中立国ノ動向
今後ニ於ケル独ノ軍事的情勢ハ楽観ヲ許ササルモノアリ,特ニ第2戦線方面ニ於テ断乎クル決勝的攻勢ヲ採り作戦ニ成功ヲ収メサル限リ東部戦線ニ於ケル相次ク後退ト相俟ツテ,独ノ傘下諸邦並ニ中立国等ハ漸次反枢軸側ノ策謀ニ屈服スルノ事態ヲ見ルコトナシトセサルへシ
第3節 「ソ」ノ対日動向
東亜及ヒ欧洲ノ情勢枢軸側ニ不利ニ進展スル場合,「ソ」カ依然従来ノ如キ対日中立態度ヲ堅持スへキヤ否ヤハ疑問トスル所ナルモ,特別ノ事態発生セサル限リ自ラ求メテ対日参戦ハ勿論対米軍基地供与ノ挙ニ出ツルコトナカルへシ
※ ソ連の態度に対する見解は、これでは甘過ぎていましたね。決定的でした。
第4節 世界政局ノ動向
交戦各国ハ死闘ヲ続ケツツアルモ今ヤ内存スル窮状漸ク表面ニ露呈セントシ,茲ニ彼我戦勢ノ均衡破綻及ヒ予想スへカラサル異変等ヲ生センカ直チニ政局転機,動因ヲ包蔵シアルノ状顕著ナリ従テ今後ノ状勢推移ニ依リテハ,欧洲ニ於テ独ソ又ハ独英米和平問題ノ発生及ヒ中立諸国ノ背反又ハ独傘下諸邦ノ脱落ヲ見ルコトナシトセサルへク厳ニ警戒ヲ要スへシ,又重慶ハ,戦局ノ推移,米英ソノ動向及ヒ日本ノ態度如何ニヨツテハ,将来政局転換ヲ考慮スルノ可能性ナシトセス
※ ドイツについての視点は間違ってはいませんね。但し、それはドイツの敗戦によるもの、とまでは考えていなかったようです。
いずれにせよ、それが決定的に日本に不利になる点に於ては、どうにもならない展望でした。
一方、重慶が政局転換を図る---- ではなく、全中国そのものが赤化するとは、当時としては誰も考えていなかったでしょう。
第5節 綜合判断
今ヤ敵ハ,戦争ノ主動性ヲ把握シアノレノ現状状ニ乗シ全力ヲ傾倒シテ政戦両略ニ亘ル真面目ナル決戦攻勢ヲ続行強化セントシ,今夏秋ノ候ヨリ戦政局ノ推移ハ愈々重大化スへク,之ニ対シ帝国ハ欧洲情勢ノ推移如何ニ拘ラス決戦的努力ヲ傾倒シテ敵ヲ破摧(はさい)シ,政略施策ト相俟ツテ飽ク迄モ戦争完遂ニ邁進セサルへカラス
今後採ルへキ戦争指導ノ大綱
方 針
1.帝国ハ,現有戦力及ヒ本年末頃迄ニ戦力化シ得ル国力ヲ徹底的ニ結集シテ敵ヲ撃破シ,以テ其ノ継戦企図ヲ破摧(はさい)ス
2.帝国ハ前項企図ノ成否及ヒ国際情勢ノ如何ニ拘ラス,一億鉄石ノ団結ノ下必勝ヲ確信シ皇土ヲ護持シテ飽ク迄戦争ノ完遂ヲ期ス
3.帝国ハ,徹底セル対外施策ニ依リテ世界戦政局ノ好転ヲ期ス
要 領
1.本年後期国軍戦力ヲ最高度ニ発揮シテ決戦ヲ指導シ敵ノ企図ヲ撃摧(さい)ス之カ為概ネ左記ニ拠り作戦ヲ遂行ス
イ 太平洋方面ニ於テハ,来攻スル米軍主力ヲ撃滅ス
ロ 南方重要地域ヲ確保シ且ツ万難ヲ排シテ圏内海上交通ノ保全ヲ期ス
ハ 印度洋方面ニ於テハ,概ネ現態勢ヲ保持ス
ニ 支那ニ於テへ,極力敵ノ本土空襲企図ヲ封殺スルト共ニ海上交通ノ妨害ヲ制扼(せいあく)ス
2.速カニ左ノ施策ヲ断行ス
イ 国体護持ノ精神ヲ徹底セシメ,敵愾心ヲ激成シ闘魂ヲ振起シテ飽ク迄闘フ如ク国内ヲ指導ス
ロ 統帥ト国務トノ連撃(れんげき)ヲ愈々(いよいよ)緊密ニス 之カ為最高戦争指導会議ノ運営ヲ愈々活?(かっぱつ)ニス
ハ 決戦戦力特ニ航空戦力ノ急速増強ヲ期ス 之カ為各般ニ亘り生産隘路ヲ強力ニ打開ス
ニ 国内防衛態勢ヲ急速ニ確立ス之カ為特ニ重要ナル生産機関ノ防空施設ヲ促進ス
ホ 極力日満支ヲ通スル地域及ヒ南方地域ノ自活自戦態勢ヲ促進ス
之カ為先ツ日,満,支ノ開発ヲ重視ス
3.世界各国ノ動向ヲ注視シツツ,作戦ニ呼応シ左ノ対外施策ニ依リ世界政局ノ変転ニ対処ス
イ 「ソ」ニ対シテへ,中立関係ヲ維持シ更ニ国交ノ好転ヲ図ル尚速カニ独ソ間ノ和平実現ニ努ム
※「ソ」の腹については完全に読み違えています。
ロ 重慶ニ対シテハ,速カニ統制アル政治工作ヲ発動シ支耶問題ノ解決ヲ図ル之カ為極力「ソ」ノ利用ニ努ム
ハ 独ニ対シテハ,緊密ナル聯絡ノ下ニ共同戦争完遂ニ邁進セシムル為凡有手段ヲ講ス 但シ日ソ戦ヲ惹起スルコトナシ
万一独カ崩壊若クハ単独和平ヲ為ス場合ニ於テハ機ヲ失セス「ソ」ヲ利用シテ情勢ノ好転ニ努ム
※「ソ」頼みの姿勢、これだったんですねえ。
ニ 大東亜ノ諸国家諸民族ニ対シテハ,其ノ民心ヲ把握シ帝国ニ対スル戦争協力ヲ確保増進スル如ク強力ニ指導ス
比島ニ対シテハ,比島大統領ノ希望ヲ容レ適時米英ニ対シ参戦セシム
将来東印度ア独立セシムルコトヲ成ルへク速カニ宣明ス
ホ 対敵宣伝謀略ハ,一貫セル方針ノ下ニ組織的且ツ不断執拗ニ之ヲ行ヒ,其ノ重点ヲ我カ戦争目的ノ闡明(せんめい)並ニ米英ノ戦意喪失,米英ソ支ノ離間ニ指向スルト共ニ敵側ノ政謀略攻勢ニ対シテハ機ヲ失セス之ヲ破摧(はさい)ス
(『日本外交年表並主要文書』下より)
※ 敵の戦略は島伝いに飛び飛びにやって来ましたね。こちらは占領した大小の島々すべてに小数の兵力を張りつけました。根本的に作戦が間違っていたのか、それを読んだ敵が利口だったのか・・・多分 後者だったのでしょう。
“ ~~ おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に...”
桃太郎の話は ここから始まりますが、これは「父の恩は山よりも高く、母の恩は海よりも深し...」この教えに基づいている----とは よくお聞きになると思いますが?・・・・。
桃太郎の話は そのように 説話的 道徳的観点から論じられているケースが多いようです。
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但し、今回の話は、それとは別の次元での話になります。
桃太郎の話は単なるお伽話とは云っても その中には いろんな意味が隠されているのですよ。
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まず・・・
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桃太郎はキビダンゴを持っているので、住んでいた場所は 吉備の国 現在の岡山県である事が判ります。それがあって、岡山駅前には桃太郎の立派な銅像がありましたね。
(キビの文字は「黍」が正しいのですが ここでは詳しい説明は省略。)
桃太郎は、そこを起点にして、鬼退治に向かうわけですが、目的地は 鬼が住んでいる北東方面、十二支で云う「鬼門」方角でした。
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十二支では ご存じの通り、時計回りで12時 子(ね)を起点として、右まわりに 次は 丑(うし) 寅(とら)---- と続きます。
その刻みを方角に置き換えると、丑(うし) 寅(とら)は 北東の方角となります。 そのあたりの方向が 鬼門 です。北風が吹いて来る寒い方向ですよ。不吉で悪い方向ともされていますね。
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鬼は当然ながら その不吉で悪い鬼門の方角に住んでいるのです。
鬼達はいずれも、丑(うし)寅(とら)の住人、従って、文字通り「牛」のツノを生やして「虎」の模様のフンドシをしめています。----理屈に合っていますよね。
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一方、十二支で 、鬼門の反対に位置する めでたい方角は 暖かくて明るい東南の方向です。そこには 狗(いぬ) 申(さる)酉(とり)が位置しています。
桃太郎は、これも当然ながらそれに由来する 犬 と 猿 と 鳥(キジ)を連れて行ったのですよ。これも理屈に合っているのが判るでしょう。
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岡山から鬼門、つまり北東方面となると どこが該当するのか はっきり判りませんが、ひとつ確かな事は、山陰地方一帯に、当時から、金、銀、鉄、等の鉱山資源が豊富に産出していた事実があります。従って、鬼達はそこに従事していた鉱山労務者、と考えてよろしいでしょうね。(山陰地方には現在でもたくさんの鉱工業の工場があります。)
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彼等は各種溶鉱炉の高熱のもとで 昼夜 働いていたので、夜目には真っ赤な姿に見えたと思いますよ。鬼の大多数が赤鬼であった理由はそこにあります。
但し、中には赤のみならず 青鬼 やら 黒鬼 等もいたと思いますが、いずれもその場の状況で いろんな色に見えたでしょう。但し、ピンクと空色の水玉模様、花をあしらったカラフル模様 とかの鬼はいた筈はありませんね。
その延長線で考えてみると、現在、山陰地方の民謡「どじょう掬い」でオッチャンが ザル を持って安来節を歌っている光景を目にしますが、あれは ドジョウ ではなく川で砂金を採取していたと考えるべきでしょうか。多分 その方が正しいでしょうね。
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----- それにしても、彼等が何故 鬼 と呼ばれ 極悪人とされていたのか。
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当時は天照大神(あまてらすおおのかみ)を先祖とする伊勢神宮が最大勢力だった反面、大国主命(おおくにぬしのみこと)を先祖とする出雲大社は、それに対抗する地方勢力の一大拠点でした。両者は覇権を争っていたのです。
. 因に、神社にお参りする時の 参拝の仕方 は両神社では現在でも違っていると聞きます。どんな風に違っているのか詳しくは知りませんが、頭に頂いている神様が違うのですから 両者には争いも当然ながら発生したでしょう。
伊勢神宮派?の桃太郎が 出雲大社派の鉱山労務者を「敵 」と見た---としても不思議ではありません。
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桃太郎の本では、鬼退治によって最後は伊勢神宮派の勝利で決着しています。
桃太郎 が獲得した戦利品は 金銀珊瑚綾錦(きんぎんさんごあやにしき)でした。
金銀は判るとして珊瑚綾錦の中の珊瑚(さんご)が お宝として何故重宝されたのかちょっと不明です。
見た目がきれいだったからか、その他の薬用とかで貴重なモノだったのか、理由はあったのでしょうが正確には判りません。
昭和20年9月27日
この写真は有名なので、いろんな人の意見やら論評やら、批判、賛意、コメント、など、図書館に行けば今でも豊富な資料を捜し出す事ができます。勿論、私の記憶もかなり鮮明に残っています。
戦後数年後、中学時代のある日の教室で、ある先生が、天皇とマッカーサーとの会見を例に出して、天皇の自己犠牲表明によって日本国民が滅亡の危機から救われたのだと、その天皇の計り知れない有り難さを涙ながらに話し出した事がありました。感涙にむせぶ--とはまさにこの事だと感心した位でした。
聞いていた級友一同の反応はどうであったか。
感泣し出した先生の姿を見て、突然どっと爆笑の渦が沸き上がったのでした。
----それが当時の我々の反応のすべてでしたね。
その事実をどのように解釈したらよいのか、それはこれを読む貴方にお任せすることに致しますが。
※ この写真は何枚か撮られたのでしょうね。天皇陛下の方が結構だらしなく?写っているのもありますよ(モノクロの方)。