2012年3月31日土曜日

「人知れぬ涙」

 ドニゼッテイ「愛の妙薬」から “人知れぬ涙 ”

 
     独唱 やまじよしひさ


    独唱 パバロッテイ

 これについては、これ迄にも何度か取り上げていますが、更に載せてみました。
 とにかく、最高の曲!ですよ〜。

 ここで両者の力量を云々するつもりはなく、人が変われば曲の味も変わる---とか云う気持ちで聞き惚れた次第でした。

庭の木蓮 他

 木蓮も、今日あたりが最高!の様な感じですね。

 
 バックの空が白いので見栄えがイマイチかなア〜。

 
 我が家の塀裾に並んでいる花(当方、花オンチにつき「ハナ」としか申し上げられませんナ〜)。

庭の木蓮

  今日(31日)

 
  一昨日(29日)

カノッサの屈辱


 カノッサの屈辱(カノッサのくつじょく、ドイツ語: Gang nach Canossa、イタリア語: Umiliazione di Canossa)は、聖職叙任権をめぐってローマ教皇グレゴリウス7世と対立していた神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が、
1077年1月25日から3日間、教皇による破門の解除を願って北イタリアのカノッサ城に赴いて許しを願ったことをいう。
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 昔、‘ 加納さん’ との友人がいたのですが、彼云うには、歴史から「カノッサの屈辱」を何としてくれないものだろうか、と泣きを入れられた事がありましたね。
「加納さん」と「カノッサ」では、ちょっと違うような気がしましたが、当人としては それでは済まなかったのでしょう。
 まあ〜申せば、「カノッサ」に限らず、いろんな古人の名前で苦労した方々はいくらでもいたのではありませんか?。
 そんなものとは縁遠い「齋藤」なる姓であっても齋藤と名乗る歴史的有名人は齋藤道三始め、結構いましたからなあ〜。

鍵 紛失

 
 自転車の鍵金具のキイを紛失〜 つまり走らせられなくなってしまいましたね。

 こうなると、自転車屋さんに新しい鍵金具一式を持って来て取り替えて直してもらうしか方法はありませんよ。
 それにしても大変だ!〜〜。

 〜〜と云う事で、別の、家内の自転車で、自転車屋さんに行って相談したら、その私の自転車に付いている鍵金具をプライヤーなりで ムリムリずらせて、とにかく走れる状態にして、それにに乗って来てくれ、と、これでしたね。

 その通りにして、その自転車に乗って持って行ったところ、金ノコギリのようなもので、付いている鍵金具を取払い、新しいキイ付きの鍵金具に付け替えて、そのままカネを払って、その自転車に乗って帰って来た-------と云ったアンバイでした。

 支払った代金は1000円でした〜。

 あっという間に片付いてしまいましたなア〜〜。

散歩道から3-31

 “ なびき伏しけん〜”-------こんな文言 キミは知っているかね〜〜。

 
 “ 乱れ雲!”〜〜

 
 “ 大砂塵!”〜。

彩り一杯 の世界


 
 庭の片隅に小さな --彩り一杯の “ ” --- が生まれていました〜〜。

窓からの眺め

 
「窓からの眺め」ならぬベランダからですが、木蓮も満開のようです〜。

 今朝は空模様は大丈夫のようですが、結構 強い風が吹いていますよ。
 これって、“ 関東のカラ風 ” 、として 些か名の売れている風ですよね。

この数字を〜


 
 私と同年齢の 御同輩 及び その前後の諸君!〜いかがお考えでしょうか?。

窓からの眺め


 .
 我が家は、“ 東南の角地 ” に建てたので、まあ〜住宅としたら最高のセッテングだったでしょうか。
 当時、このへん一帯は、単なる原っぱだったので、いかように建てようと自由自在?だったわけですよ〜。
 勿論、現在に至るもご覧の通り、まだまだ余裕のある土地柄と云えるのかも知れませんが〜。

 ただ、大きく構えて、日本の国力から云々するとしたら現在の日本全体そのものが、かなり限界に近づいているとも云えそうな気もするので、住宅事情は、もうこれ以上の状況にはなり得ないのがホントのところなのかも?〜---------と思いもするし-------- どうなんだろうか?。

2012年3月30日金曜日

新鋭ジェット戦闘機

 戦争が終わったと、ほぼ同時に、アメリカetc に “ ジェット式戦闘機 ” が存在している事を始めて聞きましたね。
 くわしくは不明にしろ、それがどのようなものか想像して描いたのが、ここでの鉛筆画です。
 それなりに正しく、そして間違っているようですが、まあ〜ご覧下さい。
 中学1年の頃です。(当時の中学は、私共の場合は「併設中学」とのハンパな名称でしたナ〜)。

 以下は、初期の プロペラジェット戦闘機の画像検索からです。

 

散歩道から3-30-4

 これはピンボケだったので ハネた一枚ですが、まあ〜それ程目立たないようなので入れてみました。

 このような写真は、重ねて申して〜 PCで見る事で引き立つ写真でしょう。
 なにせ、後ろに光源がセットされているわけですから〜。

 通常のプリント写真では、電柱の外灯など 、こうも ちゃんと出ませんヨ。
 
 ホント〜、世の中進歩したもんですなあア〜 ----- 改めて それを知る次第〜〜。

 

散歩道から3-30-3

 いかなる画家であれ、このような夕暮れを作品には取り入れないでしょう〜。
 取り入れない-----のではなくして、取り入れられない〜と思いますね。

 
 更に加えて、このようなトンデモナイ図柄?が、日常的に、出ては消え-------しているのですから〜。

 
 空の中程の ヒモ状の雲は、多分、飛行機雲でしょう。

散歩道から3-30-2

 いかにもサイケデリックな雲!〜が展開されていました。

 
 久しぶりに訪ねた “ 小さな宇宙!”-----相変わらずの宇宙でしたね。

 
 日没となると、これだけ赤い景色が展開されるわけですから、光りの波長の成し得るワザも大変なモノです〜。

散歩道から3-30


 
 そのへんの草っ原に咲いている名も知れぬ花ですが、見れば見る程、その精緻な花の美しさに打たれますよ。
 何故、これ迄の美しさが要求されるのでしょうね。

 -------とにかくミリ単位の花でしたが、キチンと間違いナシに咲いているのですから〜〜。

庭の木蓮


 
 単なる 庭の木蓮も、写す角度時間によって、これだけ違った印象になるものですね。

龍山-3

 この文面には、学校屋上で、敵の飛行機の来襲に対する監視員の事が書かれてある事と、進駐軍のジープを見た、との文言が、共々 書き込みがあるので終戦を挟んで、5年6年と、続けて二回行った事が判明しました。

 ------- 記憶も、こうなると面倒クサくなりますなあ!〜〜。

龍山-2

 
 下段の遠足の作文が残っていました。
 全8頁の大作?でした〜。
 宮城遥拝をした、とあり、加えて、学校の屋上にあった監視所(これは敵機の襲来を見張っている監視所)がこちらを望遠鏡で見定めていた、ともあるので、戦時中の遠足である事が判明しました。

 その日は高湯温泉(現在の蔵王温泉)で一泊して翌日に帰って来たとありましたが、それでも結構キツイ遠足だったでしたよ。

 いずれにしても大変な頃、よくぞ、まあ〜そんな頃に行ったもんですね〜。

龍山

 山形市から見る「龍山」。
 中学時代頃?の水彩画です。

 検索からでは、この山の姿は出て来ませんでした。
 この龍山は、蔵王の外輪山の一つなので、その理由のため〜それもあるのかも知れませんが〜。

 なお、不思議に思われるでしょうが「蔵王山」との名の山は存在しませんヨ〜。
 存在するのに お釜で有名な中心湖がありますが、これも「蔵王のお釜」であって、蔵王山を示す呼称ではありませんね。「蔵王」は、あのへん一帯を示す呼称に過ぎませんので----------。
 お間違いのないようにして下さいませ。

 
 検索から お借りした龍山から見た山形市街。ただ、ちょっとはっきりしません〜。

 戦争が終わった小学校の6年生の時だったか、学年一同で、蔵王高湯温泉まで遠足がありましたなあ〜----。
 蔵王は あのへん一帯を示す呼称なので、この龍山も、その一つでしょうね。
 その時に龍山から見た山形市、それがこれでした〜。

 
 その時の遠足での風態がこれです。
 まあ〜乞食の群れと何等変わりがなかったでしょう〜。

 その時、始めて進駐軍のジープを見たので、その感激も強かったですヨ!ー。

卒業式の歌

戦時中、小学校での卒業式での歌は「蛍の光り」「仰げば尊し」、と、この2曲が定番であったのは当然なのですが、終戦真近に、両曲とも米英の曲であるとの理由で、新しく作曲された曲に変更されたのを憶えています。

 私が小学校を卒業したのは、昭和21年の春、つまり終戦後だったので、元に戻り、共々 以前の両曲で行われたのですが、在校生だった戦争後半での、新しい その曲のメロデイ及び歌詞については全く忘れ去っていますね。

 どなたかご存知の方おられませんですかなア〜。
 検索からでも出て来ないのですよ。

 
 

我は信ず 他〜2

 下段に載せた詩について〜ですが、ここで子供ながらヘンに思った事があって〜--------。

 それは、このような立派な?詩は、戦争に勝っていた頃には、見た事も詠んだ事もなかった------と、これでしたね。

 加えて、負けていた頃の米英には、これに似た詩は、あちらでも創られて詠まれていたのだろうか?、とか〜。

 そんな事を先生に聞こうかと思ったのでしたが、〜もっと真面目な事を考えろ------なんて何か云われはしないか〜それが怖いばかりに、それでオワリになったのでしたが。

 もし、そんな事を訊ねたら貴方は何と答える事でしょうか?。

 

我は信ず 他〜


 その昔、戦争中での事。私共の先生が、ある日の事、黒板に書いて下さったのが下記の 詩 でした。
 その時のノートを保存してあったので、載せてみましたので〜。
 前にも載せた記憶もあるのですが、それはそれとして今回も ご覧になってみて下さい。


 粥

 ここにして これあり これぞ この米のかゆ
 はろばろと数千里よよあし原みづほの国のみたからだ
 ひととせを汗にまみれて磨き上げたる 真珠宝石
 わだつみの逆巻く潮をのりきりていのちに代へて海軍さんの 護り来し神のたまもの

 敵機の下をころびて 雨なすたまの中はひつ 汲みたる水を飯盒にいれ 爆撃ごとに火を消して
 去りては又焚きつけ つとめて煙出さぬごとく ねじり鉢巻して焚き上げたるこの味は二つなし
 いささかの塩っぱい海水にとぎしたの(1字不明)も(わが涙までまじりしならじ)

 いざ喰らへわが戦友(とも)よ喰はで死にしわが戦友(とも)よ これぞこの米の粥ぞ 

 吉田 嘉七

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 われは信ず

 一、ジヤングルに深くこもれば雨は夜々肌へを洗ひ壕内に日々を送りて敵弾を常に浴びつつ
   いつの日に友軍機飛び糧来るや われらは知らず
   されどただわれらは信ず われらは勝つと

 二、幾日ぞ弾丸(たま)を撃たざる 幾日ぞ米を喰はざる 屋根なせる「星」の翼
  (「星」とはこの場合「星条旗」を指す)
   ジャングルに木のかげは失せ嵐なす敵の弾丸につぎつぎに友はたふれぬ
   されどなおわれらは信ず われらは勝つと

 三、みかへればやせさらばえて肉そげし ほほよ腕(かひな)よ
   よし弾丸は免れ得とも長くよし 生きてあるまじ
   友軍機いまだ飛ばざる糧秣(りょうまつ)も遂に来らず
   しかも尚われらは信ず 御国は勝つと        

 吉田 嘉七

 
 今朝は、ご覧の通りの曇り空でした。
 ただ、雨が降りそうでもないので、今日はこんな調子で一日が続くのでしょう。

 それにしても、空の雲とは空気中に含まれている水蒸気が液体化したモノ〜とか、習った覚えがありますが、それにしても、その具象化される姿が、いつも違う--------これが解せませんねえ〜。

 つまり、具象化されるのであれば、それは、空一面でも、部分的 であっても、同じ状態になるのではないか、つまり、この写真の様な、塊(かたまり)として現れる根拠が分からない、と云う事ですよ。

2012年3月29日木曜日

作文と方言


 以下「友」と題した作文ですが、文章はOKとして、セリフとなると、ズウズウ弁 の表現になってしまうので、おかしいと思ってしまいますね。

 
(前文章省略)------------ 姉はその事に目をつけたのか、「お前だも、もう少し、おそく、ごはんをたべてもいいんねが」
僕は又はじまったかと思ひ、何もしないで、こたつにもぐり込んでしまった。
姉が起したので目がさめた。「彰!!早く ごはんけえず」いかにもいじわるさうな声なので、僕は「ごはんなど、かね」と又こたつにはいった。
「彰ちゃん、学校さ あべはー」と来たのはそれからしばらくたってからだ。
 (以下略)

 とにかく、方言でのセリフを使っての作文で、モノになったのはホントいくらもありませんでしたね。

窓からの眺め

 現在の「窓からの眺め」です。
 いつもの通り、別に変わった事もないようです。

 
 上の写真を画像処理をして、明るくしてみました。
 このような光景は実際としては有り得ない眺めですから奇妙な感じがしますよ〜。

 ただ、いずれにしても、夜の景色だと分かるので、あれこれ云われても、別段 何でもない写真にしか見えませんね。

窓からの眺め --別途

 
 この写真が、ここでの最も古いものですが、探し倦ねたものだけに、年月日が不明ですね。
 それにしても、せいぜい数年前だと思うのですが?。

窓からの眺め

 

 これ迄と、全く変わらない今日の “窓からの眺め” でした。

‘ 陽の当たる場所 ’ 〜

 
 夕方になっても、こちらと向こうの枝の何本か わずかであれ “ 陽の当たる場所 ” にあって、良かったですねえ〜。

切られた樹


 

 
 散歩の途中、よく切られている樹を見かけますが、それはそれ “良し” との方策からでしょうから、云々する事もないのでしょうが、多少は同情したくなるものですね。