2010年11月30日火曜日

不自惜身命

  
 かって、貴乃花が横綱昇進の折り「不惜身命」と決意を申した事で有名になりました。
 ただ正確には辞書を引くと「不自借身命(ふじしゃくしんみょう)」であるとの事でしたね。

 正確には、以下。
 法華経寿量品の中の自我偈の一部、
「------- 一心欲見仏 不自惜身命 自我及衆僧 倶出霊鷲山・・・」
「一心(いっしん)に仏(ほとけ)を見(み)たてまつらんと欲(ほっ)して自(みずか)ら身(しん)命(みょう)を惜(お)しまず(以下略)」とあります。

 これのポイントになる語句の意味は 簡単に云えば「自分の命を惜しむことなく」となるでしょうか。
 かっては山本五十六元帥の座右の銘であったとの事。

慰問袋

 
 予科練に行った兄に送るために正装?して写した当時の私。
 小学校六年当時。
 当時は写真館に出向いて写真を写すとなると希有な事でした。
 この写真を含めて、いろんなモノをギッシリと詰めた慰問袋を作り、予科練生として兄の居る鹿児島県の鹿屋基地に発送したのですが、戦後帰って来たその兄云うには当然ながら?受け取ってはいないとの事でした。

 もう既に、そんな悠長な時代ではなかったのでしょう。
 この時のその慰問袋はアッと云う間もなく、発送の途中で かすめ取られたのでしょう。

特攻隊

 

 
  予科練時代の兄

 
  戦後の兄(今は既に居ない)

 特攻隊が特攻隊でなかった時期での実際戦闘はどうだったのだろうか。勿論 詳しく知る由はありません。 推測の範囲ですが、戦闘での敵の火砲による損害は相当に大きかったと思うのですよ。

 こちらからの爆撃となると単発の戦闘機が、それも単機で魚雷を抱いて海面スレスレに敵艦に近付く・・・・もうそれだけでも集中砲火を浴び犠牲はうなぎ上りに増大したと思いますね。加えて、魚雷を発射したあと、その魚雷が命中するかしないか、それには関係なしに、目の前に近付いて来る敵艦への衝突を避けるべく、急激上昇をする・・・その時こそ下方から集中砲火を浴びますよ。犠牲は大きかったのではないかなあ~~。毎回、ほぼ全滅に近くて、大部分が 未帰還機(残酷ながら懐かしい言葉。)だったと思いますね。
 
 それならば いっその事、魚雷発射の後は、そのまま敵艦に突っ込む・・・・同じ犠牲を出すならば、自分の機内に それなりの爆弾も抱いて、それ諸とも体当たりを敢行する事で、それまで以上に多大な損害を与える事ができる-------誰が考えても その結論が出たと思います。
 又、海面からではなく上空高い所から敵艦に向かって急降下して爆弾を投下する、このケースにしても、投下後、ここでも次は急上昇です。やはり効率から考えればそのまま爆弾を抱いたまま突っ込んだ方が与える損害は大きくなりますよね。
 
 隊員達の気持ちはどうだったか?。ただ、推測では初期の頃と最後の頃では随分と違ったのではありませんか。まあ、最初の頃は 司令官はじめ大勢が、 千切れるばかりに手を振って見送りをしていましたね。然し、途中頃からか、何故か手を振っている見送りの新聞写真は一枚もありません(切り抜き帳に、その事を書いてあります。)。飛んで行く方も見送る方も、そこには感動も感激も消え失せて、単なるスケジュールに従って日程を消化していく無機質な作戦があるだけ。ともあれ、もう惰性だけだったのだと思われますが。
 飛んで行く飛行機の燃料は片道分だけ、その余力に 爆弾だけは目一杯積んで行ったのでしょうね。・・・・唯々哀れですよ。

 とは申せ、あれこれと推し計るとなれば、亡き隊員達への冒涜 になりかねませんね。この点に関する限り、私の兄(同じ特攻隊員として鹿屋基地で待機中 終戦となり帰って来た。)の言葉を引用させてもらえば・・・・「あんまり関係がないみたいな気もするがなあ..」と、こうでした。ひとごと の様相でしたね。確かに、戦争が終わってしまえば もう他人事ですよ。振り返るサマは殆どありませんでした。むしろ振り返りたくないため・・・これが強かったような気もしますが。

散歩道から

 

 
 数日前に写した近くの景色です。白い塔は、ここの土地ならでの 給水塔。

------------ それにしても見事に晴れわたっていた日、思わずも吸い込まれそうな空の深さでした。

散歩道から

 
 正午頃の まる の影。
 冬至も近いわけですから、長く延びるのもムベなるかな------ですね。

 
 夜来の雨で、せっかくの候補者の顔もカタナシでした。

雑木林

 

 

 
 ここの雑木林は、いつも「まる」と行く近くではなくして、自転車で走って、結構離れている遠くの雑木林。
 杭を打って小径を作っているとか、ここはここなりに違った雰囲気を醸し出しています。
 その目で見ると、たかが雑木林とは云え奇異?に映じるものですヨ---------。

 この地域のみならず、北は北海道から南は九州まで------となると それぞれ植生が違うわけですから、いろんな雑木林があることでしょうね。

 因に、山形市では どうだったか---------昆虫採集のため何カ所に虫取りに結構出かけた覚えがありますが残念ながら詳しい記憶は残っていません。杉とか松とかの針葉樹が多かった?------そんな記憶もありますが。

花−2

 
 
 この花はピアノの上に置いてあるもの。
 ともあれ “ 永久不滅 ” の花です。
 ----------- これがスバラシイ(?)。

 “ 花のいろはうつりにけりな-----” 云々、と、この文言の当てはまらない花、これがスバラシイのですよ。

小径

 
 
 愛犬「まる」と一緒によく通る小径(こみち)なのですが、御覧の通りアスフアルト舗装です。
 風によるホコリの吹き上げなどを想定して、それを防ぐためもあるでしょうが、人通りの少ない小径ですから別に舗装の必要もないと思われるのですが、いろいろ事情もあったのでしょう。

 ともあれ、ホントの畦道などを除いたら、すべての道が舗装されているような感じがしますね。
 ただ、よく見ると、かなりに傷みも見られるので、以後、再舗装は時に応じて行われるのでしょう。小径とは云え、カネのかからない道は、あんまり無さそうなのが現代事情かも知れません。

平和と武器在庫

 
 
 戦争が少なく平和が続くとなると、各国が抱える武器弾薬---それも年を追うごとに新型が出来て来る ミサイル、飛行機、戦車、弾薬、軍艦、加えて核兵器----etc、の在庫処分はどうしているのでしょうか?。
 その多少は他国に売却するなり廃棄するなり と、それくらいは理解出来るのですが、その程度の処分では解決出来ませんね。
 B-29は終戦時に確か2.000台くらいの在庫が残された筈です。尤も 朝鮮戦争で使用したのを覚えていますが微々たる台数ですよ。その後、アリゾナ砂漠?に並べて廃棄されていた写真も見ました。但し、台数は数十機程度でしたね。----残りは どうしたのでしょう?。
 ベトナム戦争で使われたのはB-52です。B-29は使われませんでした。
 すべてのBー29を解体し新規機種向けに利用しようとしても、その費用は多分解体費用を含めれば倍以上のカネが必要とされるでしょうね。

 もっと大きい戦艦----アリゾナ号、カリフオルニア号、等々、それらは州の名前をつけていたので 馴染みだったのですが、これらは既に解体されているのでしょうが、これまた途方もないカネを必要とした筈です。

 加えて新しい武器弾薬は凄いスピードで新機種が開発され生産され続けて来ていると思われます。ある砲弾の新製品があったとして月産何万発くらい生産されているのか分かりませんが、毎日々々・・何万人かの工場で朝から晩まで作り続けているサマを考えるとゾオ!---としますね。旧製品を含めて更に「在庫過剰」になっているサマはあまりにも明白です。

 いくら巨大な倉庫を抱えても間に合いませんよ。
----どうしているのでしょうか?。
 大体、消費を目的としない生産はないと思うのですよ!・・・。

 すべてが国家予算の範囲内とは申せ 平和が長く続くと国家は破滅する!----こんな理屈なのでしょうか?。
 今回の ※ カトリーナ台風で垣間見たアメリカの対応については、すべて軍事予算の先行がもたらした結果でしょう-----げに、恐ろしや、と嘆くほかありません。
 平和であるが故の「武器弾薬の在庫過剰」--- いかにも無気味です。そして又、それがエンドレスでこれからも継続して続いていく・・・としたら、これはもう人間の本来持つ本能的な所作と諦めるべきなのでしょうか?。
 そうかと云って 武器弾薬を一挙に消費するために、 仮に世界的戦争が勃発したと想定したら、もう感じるのは「虚しさ」のみでしょうが----。

 ネット検索からですが-------------アメリカの戦艦は何隻かが港内で沈められたが、洋上で失われた艦は無い。何隻かは標的艦として海没処分された。----------- となると あの頃の戦艦は、やはり相応のカネを投じて解体されたのでしょう。
 これは、アメリカのみならず、イギリス、ロシア、そして日本 --------他、それなりの国に、すべて云える事ですよ。

 参考 === ハリケーン・カトリーナ (Hurricane Katrina) は、2005年8月末にアメリカ合衆国南東部を襲った大型のハリケーンである。ハリケーンの強さを表すシンプソン・スケールで、最大時で最高のカテゴリー5、ルイジアナ州上陸時でカテゴリー3である。 時間は全てアメリカ合衆国・カナダ中部夏時間、(UTC-5)。

 ※ 載せた写真は現在の 戦艦ミズーリー号

2010年11月29日月曜日

窓からの景色

 
 
 写したのは4時頃だったでしょうか。
 近頃は、あっと云う間に夕方になってしまいますね。

 現在は6時半頃、外を見ると、もう真っ暗ですよ。

花 

 
 
この造花ですが、ここに置いて もう随分長いですね。

これだけは、どこに置いてあるのか分からないでしょうが。
それにしても、世の中、随分と便利になったもの-------- 感服の至りです。

パラドックス


 人食いワニが子供を人質にとり、その母親に「自分がこれから何をするか言い当てたら、子供を食わないが、不正解なら食う」と言った。これに対し、母親が「あなたはその子を食うでしょう」といった場合、
• ワニが子供を食う場合、母親はワニがしようとすることを言い当てたので食べてはならない。
• ワニが子供を食わない場合、母親の予想が外れたのでワニは子供を食べても良いことになる。
 しかしそこで食べると、結果的に母親の予想は正しかった事になるため、矛盾にぶつかる。
このように、ワニが何をしようとも自己矛盾してしまい、子供を食べる事も、食べない事もできなくなってしまう。

 以上の話は不思議の国のアリスの作者として知られる数学者ルイス・キャロルが創作し、クロコディルズ(ラテン語: Crocodilus)というタイトルで発表した[1]。
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 これに似た例は、かなりあるでしょうが、御参考のために------。

開戦時の新聞

 
 
 昭和16年12月9日、つまり大東亜戦争開戦を知らせる日の新聞です。
 但し、ここでは、それについての云々ではなくして、この新聞の読み易さ、つまり活字がしっかりしている状態である---------と、これが、はっきり分かる新聞でもありますね。
 前述の、終戦の頃の新聞記事の状態とは、まるで違っています。

 ただ、その違いは、残念ながら、ここでは あまり分からないでしょうが。

 ------------ 以上、参考を兼ねてのアップでした。

サイパン島玉砕 その日の新聞 追加

 
 
  サイパン島玉砕の日の新聞の裏面。
 この頃の新聞で、なおかつ復刻版となると、活字、 加えて紙質、更に 加えて印刷、すべてがお粗末で、その殆どが読めないのですよ。読めるのは見出しの活字だけ。

 ダメだこりゃ〜〜です。

フジタ画伯の絵「サイパン島玉砕」


 
 フジタ画伯が当時 描いた「サイパン島在留邦人玉砕の図」、有名な作品です。

 戦時中、当時の日本の画家達が、総動員で戦争画を描き国家奉仕を行ったのですが。上の絵はその時の一枚 。
 全国持ち回りで展覧会が開かれ、学校行事として、全員連れられて見学したのは多分昭和20年の春頃だったと思います。但し、上のサイパン島玉砕の図を始め、何枚かの絵は児童生徒には残酷過ぎる、という理由で、別室展示になり見る事は許されずに終わりました。

 ------------ フジタ画伯は、もともとは日本人でしょうからね。

サイパン島玉砕


 
 ↑ この写真の下、文面が切れましたが、下段がその文面です。

 

 見出しの「巍然」、これは読めませんでしたね。
 とにかく、このような場合での新聞には読めないムズカシイ漢字やら漢詩やらが並ぶのが常でしたよ。
 それをもって何かしら神秘のベールに包み込もうとの意図があったのでしょう。
 加えて、必ずと云ってよい程 霊峰富士、加えてここでのような波の砕ける姿、そんな写真が載りましたよ。

 まあ〜思うに姑息な手段でありながら、もしかしたら現代に於いても その傾向はあるのかもナ------。

 ぎ‐ぜん【×巍然】
[ト・タル][文][形動タリ]山などが高くそびえたっているさま。また、ぬきんでて偉大なさま。
 「―として連なる山々」「―たる人物」

 以上、昭和19年7月19日の新聞(復刻版)からでした。

航空母艦

 
 
ニミッツ
排水量
満載 100,020トン
全長
333 m
全幅
76.8 m
喫水
11.3 m
機関
ウェスティングハウス A4W 原子炉2基
蒸気タービン4機, 4軸, 260,000 shp
最大速
30 ノット以上 (56 km/h)
航続距離
乗員
士官・兵員:3,200名
航空要員:2,480名
兵装
RIM-7 シースパロー短SAM 2基
RIM-116 RAM 2基
搭載機
90機
 



信濃(しなの)は、かつて大日本帝国海軍に所属した航空母艦である。
建造中の大和型戦艦三番艦を戦局の変化に伴い、戦艦から航空母艦に設計変更したものである。
艦名は旧国名の信濃国から採られている。
1944年、未完成のまま回航中に米潜水艦の雷撃を受け、一度も実戦に使用されることなく沈没した。
1961年にアメリカ海軍の原子力空母であるエンタープライズが登場するまでは、史上最大の排水量を持つ空母であった。

排水量
基準:62,000 トン
公試:68,060 トン
満載:71,890 トン
全長
266.1 m 飛行甲板長: 256m
全幅
40 m,
水線長:36.3 m
吃水
10 m
機関
タービン4基4軸, 153,000 HP
最大速
27 ノット
航続距離
10,000 海里(18ノット時)
乗員
士官、兵員2,400名
兵装
12.7cm連装高角砲8基16門
25mm3連装機銃37基
25mm単装機銃40基
12cm28連装噴進砲12基
搭載機
常用42機、補用5機
(総数50機という説も)

 なにせ一度も実戦に使用されることなく沈没した。---------こうですよ。

2010年11月28日日曜日

散歩道から

 
 明るい建物はコンビニ。

 
 いつもの散歩道からですが、載せたのは画像処理をやらないままの画像です。
 時間は四時半過ぎの頃。

 周囲は、かなり暗くなっているのに拘らず結構明るく写るもの。
 使っているのはバカチョンクラスのデジカメ。
 それでなお昔のフイルム式のカメラからは想像も出来ない感度ですよ。

戦後すぐの銀座

 
 
 手前に並ぶテントは、なんでもかんでも、残っていたガラクタ類を売るヤミ市でしょうね。
 それにしても、向こうに建つ 服部時計店が残ったのが、ちょっと信じられませんでした。
  ---------- 以上、検索からでした。

散歩道から

 
 
 都県境----------道路から向こうが埼玉県、こちら側は東京都。
  このへんでは、東京も埼玉も、その景色では一緒くたですね。

 
  青空と住宅群と畑。

 .  
 いつもの、定番写真。

 
 “ たんぽぽ ” が一輪。
 たんぽぽって今頃咲くのかどうかは知識不足で不明。

ジョー・オダネル-2

 
 
 これもオダネルの作品。
 焼け野原に生き残った孤児ですよ。
 これからどうしようと云うのでしょうね。

 ------------そして、その後どうなったのでしょうか?。

ジョー・オダネル

 .

 載せた写真、これは特に有名な写真だと思うのですが、これが外国人(下記)によって撮影されたのが一寸残念ですね。

 下の写真は、今回の検索で初めて知った同じ写真集からですが、当然ながら、これも秀逸ですよ。

 -------------それにしても、それだけの評価を得ているだけあって、確かに名作品と称していいでしょう。

 欲を申せば、この写真の主人公のその後を知りたいですね。

 勿論、しっかりした大人に成長したのではありませんか?。

 

 ジョー・オダネル(ジョー・オドネルとも)。

(Joe O'Donnell、Joseph Roger O'Donnell、1922年5月7日 - 2007年8月9日)は、米国文化情報局に勤務した米国の記録映像作家、フォトジャーナリスト及び写真家。

 最も有名な作品としては、1945年と1946年に日本の長崎及び広島における原爆投下直後の状況を、米海兵隊の写真家として撮影した一群の記録写真がある。

 ペンシルベニア州ジョンスタウン生まれ。

 なお、この写真については私のHP内にも、やや詳しく載せてありますので、ご覧下さい。

ボケ防止には---。

 
 

 私の場合は、考えてみれば、このPC 画面を見据えながら、一方でキーボードも睨み、マウスに手を置いている、と、その時間が、一日中で最も長い時間--------と、そんな気はしますね。
 勿論、PCから得られる世界情報 etc のみならず、 テレビ、新聞 、 etc、 等々を見る時間も充分確保してあります。
 なにせ、ボケ防止に最高なのは、アタマをせっせと使う事だとも聞き及んでいますしね。

 身体を使う方としては、チビ犬を連れての散歩、使い走り、 等々 にも結構な時間を費やしていますが

 一方、一日の大部分をテレビに向かって過ごしている--------とかの御同輩も多いとは聞き及んでいますが?。
 当然ながら、世界事情に目くばりを欠かさない点では、確かでしょうし、それはそれで結構とは申せ、受け身だけの生活も いかがなものかとも考える次第。

2010年11月27日土曜日

ゴンドラの唄


 
 前に載せた黒沢監督の「生きる」の最後のシーンで主人公が歌う唄が「ゴンドラの唄」でしたね。

 ゴ ン ド ラ の 唄
 作詩 吉井勇  作曲 中山晋平
 大正4年 

1 いのち短し 恋せよ乙女
  朱き唇 褪せぬ間に
  熱き血潮の 冷えぬ間に
  明日の月日は ないものを

2 いのち短し 恋せよ乙女
  いざ手をとりて 彼(か)の舟に
  いざ燃ゆる頬を 君が頬に
  ここには誰れも 来ぬものを

3 いのち短し 恋せよ乙女
  黒髪の色 褪せぬ間に
  心のほのお 消えぬ間に
  今日はふたたび 来ぬものを

 この唄を憶えている世代となったら、私共などが最後なのかもと思うのですが?-----------。
 どんな唄か、多分 ユーチューブ で聞けるとも思いますので、聞いてみて下さい。

 それにしても、あの時の画面にピッタシの曲でしたナ--------。

ピタゴラスの死

 
 

 ディオゲネス・ラエルティオスは『ギリシア哲学者列伝』の中でピタゴラスの最期に関する4つの説を紹介している。

  1. クロトンの家にいる時に放火されて、逃げ出し、豆畑まで来た時に立ち止まったため、追手に捕らえられて咽喉を切られて殺された。
  2. メタポンティオンのムゥサの女神たちの神殿に逃げ込み、40日間の断食をした後で死んだ(ディカイアルコスの説)。
  3. メタポンティオンに退き、断食をして死んだ(ヘラクレイトスの説)。
  4. アクラガス人とシュラクサイ人との戦闘に参加し、アクラガス軍の側に味方して戦った。しかし、アクラガス軍が退却したため、豆畑を避けて廻り道をしようとした時に、シュラクサイ軍に捕らえられて殺された(ヘルミッポスの説)。
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 これだけの人物でありながら、その死亡に関する情報となると結構バラバラなもんなのですナ-----------。
 以上、参考までに。

ピタゴラス

 
 
 ピタゴラスについては下段の方にも載せましたが、追加です。

ピタゴラス(希:Πυθαγόρας、英:Pythagoras、紀元前582年 - 紀元前496年)は、ピタゴラスの定理などで知られる、古代ギリシアの数学者、哲学者。彼の数学や輪廻転生についての思想はプラトンにも大きな影響を与えた。「サモスの賢人」、「クロトンの哲学者」とも呼ばれた。古代ギリシア語の発音により忠実に表記するならばピュタゴラス、ピュータゴラースとなる。

 ピタゴラスの定理(ピタゴラスのていり、英語: Pythagorean theorem)は、直角三角形の3辺の長さの関係を表す等式である。三平方の定理(さんへいほうのていり)、鉤股弦の定理(こうこげんのていり)とも呼ばれる。
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 これらはこれで、別に問題はないしOKなのですが、当時のギリシャには、何故このような逸材が多数存在していたのか、加えて、現在のギリシャは何故 影の薄い国家に変容してしまったのか、それが不思議ですね。

 国家興亡には、その当時の、その国家の生産力に関わる---------との論調もあるかとも思うのですが、それもちょっと頷けませんね。社会のメカニズムに変化があろうとしても、人間自体に変化は生じる筈もないと思うからなのですが。
 まあ〜ともあれ、歴史的にも現実的にも、国家には興隆衰退があり、加えて、それにつれて、その国家に属する人間にも影響が及ぶ、との論拠は正しいのでしょう。

「菊水作戦」

 
 
 戦後の資料からですが。
 沖縄死守のための作戦で、使用の飛行機に734台の損失を被ったとあるので、いかに凄まじい消耗戦であった事が伺い知れます。
 700余台ですよ!、---------- 仮にそれを並べてみたら、そこらの学校のグラウンドがいくつ位必要とされるでしょうね。凄い面積が必要とされる数字です。
 加えて犠牲になった兵士の数も最低で何人になるのでしょうか?。これも目を覆いたくなる数字な筈ですよ!。

 まあ〜負けるべくして負けた最悪の戦争だったのでしょうなあ〜〜。

 「菊水の旗」となると、確か「楠木正成」の旗では なかったですか?。

今日の新聞から「野火止用水」

 
 
 “ホタル飛ぶ清流 もう一度 ”
 --------------とありますが、ちょっとムリでしょうね。

 ただ、ホタルはさておいて、現在は大きい緋鯉の姿が時折見受けられますので、それだけでも かなりの進歩なのではありませんか。とにかく単なる泥流ではありませんね。最近は 水質は かなりキレイになっています。

 それだけに、仮にホタルの幼虫を放つとなったら、その鯉の餌になるだけだろうし、痛し痒しでしょうなあ〜。 

-----臭かったnodeha?

 
 
 良く見かけるような絵で、これはピタゴラスとの事。

 まあ〜絵に別に問題はないのですが -----------、
 ただ、リアルなその場を想像するに、おそらく このテの衣服類は 当時は フンプンと匂って、さぞや臭かったろうなあ〜〜と推測する次第ですが、推測通り、現実としても そうだったのではありませんか?。

 洗濯など、一度もしないのではないかな -------- どうだろう??。

 そんな事を思い浮かべる私が異常だとも思わない次第ですが ?-------。

焼夷弾拾い器

 
 
 空から落ちて来た敵の焼夷弾を、これで拾って棄てる-------との発想から考えられた道具。
日本人ならでの発想でしょうね。
 これが果たして実用に寄与したかどうかは、さておいて、まあ〜このように、歴史に残ったわけですから、それをもって良しとすべきでしょうナ-------- 。

映画「カサブランカ」

 
 

 この映画を観たのは中学時代の頃だったと思うのですが、どうだったろうか、はっきり憶えていませんが、間違いなしに観ましたね。

「キスをする時鼻が邪魔になるのでは----- そんな事を考えていたわ」

 正確かどうかは別にして、その時に、女性の方が男性に呟いたセリフでした。
(この映画だったと思うのですが違ったかなあ〜〜)

 いくら決められたセリフとは云え、キザな言葉だと思いましたよ。
 そのセリフだけは忘れずに憶えているのに、あとはサッパリですね。

耳なし芳一

 
 
 耳なし芳一、 この物語を ひょいと思い出しました。

 昔々ですが、小学校時代に先生から お聞きした事がありましたね。はっきり憶えています。
 
 なんかウス気味ワルイ話であったとの記憶が残っています。

 ---------- 以下検索から。

 耳なし芳一(みみなしほういち)は、安徳天皇や平家一門を祀った阿弥陀寺(現在の赤間神宮、山口県下関市)を舞台とした物語。
 小泉八雲の小説『怪談』にも取り上げられ広く知られるようになる。古くは耳切り団一である。

 詳しくは下記で どうぞ。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/

 載せた写真は検索からお借りしたもの、確かに耳がありません。

 ただ、初めてこの話を聞いたときは、何か とってつけたような結末だと訝しくも思いましたが、諸兄姉はいかがっだったでしょうか。

2010年11月26日金曜日

散歩道から

 

 
 いつもの散歩道からですが、時刻は4時半前後。日暮れ時刻が早くなって来ましたね。
 画像処理の方はシャープネスだけにして、それ以外は撮影時のまま。
 白黒の画像に近い写真になるのかとも思いましたが、結構色彩が付加されるもの。
 肉眼でも、夕焼け空は別にしてその程度の色は感じているのでしょうか。

ピサの斜塔-2

 
 
 下段に載せた塔の姿とは、かなり違って、これの方が遥かに傾いていますね。
 撮影場所が多少違っただけで、 こうなるわけですよ。