昭和17年6月、ミッドウェイ作戦に呼応して哨戒線の前身、米ソの連絡遮断、敵の航空基地の利用阻止などを目的として、陸軍北海支隊と海軍北方部隊との協同によるアリューシャン列島のアッツ島とキスカ島の占領が敢行された。
しかし、ミッドウェイ作戦の失敗によってアリューシャン列島の戦略的な価値は無くなり、しかも米軍が反攻の兆しを見せ始めたにも係わらず、大本営は何等の対策をも講じ様とはしなかった。
昭和18年5月12日、米軍は戦艦3、空母1、重巡3、軽巡3、駆逐艦12という艦隊支援のもとに、第七師団一万一千人がアッツ島に上陸を開始。孤立した離島に敵の大群を迎え撃つ日本軍は山崎保代陸軍大佐以下二千四百名、全員が死を決意し凄まじい戦いを繰り広げた。
苦闘二週間余、大本営は悪化する南方戦線の戦局打開を優先すべくアッツ島を見捨てた。
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.山崎陸軍大佐 最後の電文
5月29日14:35
敵陸海空の猛攻を受け、第一線両大隊は殆ど壊滅。辛うじて本一日を支ふるに至れり。夜戦病院に 収容中の傷病者はその場に於て、軽傷者は自ら処理せしめ、重傷者は軍医をして処理せしむ非戦闘員たる軍属は各自兵器をとり、陸海軍ととも一隊を編成、攻撃隊の後方を前進せしむ。ともに生きて捕虜の辱めを受けざる様覚悟せしめたり。他に策無きにあらざるも、武人の最後を汚さんことを恐る。英魂とともに突撃せん。
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当時の私は小学校3年生でした。
従って、この頃の新聞切り抜きはありません。
日本軍の敗退についてとなると、この時のが最高最大の記事で溢れたような記憶ですね。
その後の負け戦では、次第に扱いが小さくなっていって、最後の頃となると、それが日常的?になってしまい、熟読などしなかった記憶があります。
. 山崎大佐
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