私の兄は特攻隊員(すめらみくにのもののふ)でした。
当時さかんに歌われていた予科練の歌「・・・・七つボタンは桜に錨・・・」、この歌に憧れて私の長兄(大15年生)が商業学校4年生?で霞ヶ浦の予科練に応募したのは昭和19 年春頃だったろうか。
※「予科練」[ヨカレン]とは正式には「海軍 予科練習所」の略。
よかれん よくわ― 2 【予科練】
隊内に設置されたが、のち茨城県土浦に独立。小学校高等科卒(乙種)、中学四年修
了者(甲種)を主とする志願制で、厳しい訓練を経て飛行科下士官となった。
今思うに、二度と戻って来ない特攻隊員用に、“ 飛んで行くだけの!”---それだけの、残酷な!操縦方法を教えただけだったのかなあ~~。
兄は山形駅で大勢の“ 歓呼の声 ”に送られて 霞ヶ浦に行ってしまいましたよ。
暫くして、母親と次兄が 空襲の中を山形市から茨城県霞ヶ浦まで なんとか汽車を乗り継いで面会に行ったのはいつだったでしょうかねえ。然し、その時 既に〇〇基地に向かったとの受付での回答があって、結局会えずに戻って来ましたが・・・・。
それまでは1~2度手紙が来て、それから先は音信不通。
家の中では兄貴について話をするのは御法度でしたな。
次兄が大書して壁に貼った「兄に代わって頑張る」この文字が今でも彷佛と目に浮かびます。
やがて 終戦となり、兄貴については 家族みんな諦めていた矢先、9月末頃か、その兄貴がひょっこり帰って来ました。キツネにつままれた感じでした----。
特攻隊として鹿児島県 海軍鹿屋基地で待機中 終戦となったとの事。乗るべきヒコーキが無かった事が幸いしたと云っていました。
その兄貴は 老いてなお今も健在。
但し、戦争の事となると黙して語らず現在に至っている。
※その兄貴は 06年 3月 一生を全うして 改めて空の彼方に向け旅立ちました。
追記 兄貴の 友人(同級生)の方から当時頂いた葉書です。
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