2012年5月30日水曜日

「ひとさしの舞」



以下は、小学校時代に教わった国語からです。






二十  ひとさしの舞

  一
  高松の城主清水宗治(しみづむねはる)は、急いで
天守閣へのぼった。
 見渡すと、広い城下町のたんぼへ、濁流(だくりゅう)
がものすごい勢で流れ込んで来る。
「とうとう、水攻めにするつもりだな。」
 この水ならば、平地に築かれた高松城が水びたしになる
のも、間はあるまい。押し寄せて来る波を見ながら、宗治
は、主家毛利輝元(てるもと)を案じた。この城が落ちれ
ば、羽柴秀吉(はしばひでよし)の軍は、直ちに毛利方を
攻めるに違いない。
 主家を守るべき七城のうち、六城がすでに落ちてしまっ
た今、せめてこの城だけでも、持ちこたへなければならな
いと思った。
 宗治は、城下にたてこもっている五千の生命うをも考へ
た。自分と生死を共にするといっているとはいへ、この水
で見殺しにすることは出来ない。中には、女も子どももい
る。このまま、じっとしてはいられないと思った。
 軍勢には、ちっとも驚かない宗治も、この水勢には、は
たと困ってしまった。

 二
 さきに、羽柴秀吉と軍を交へるにあたり、輝元のをぢ小
早川隆景(たかかげ)は、七城の城主を集めて、
「この際、秀吉にくみして身を立てようと思ふ者があったら、
すぐに行くがよい。どうだ。」
とたづねたことがあった。その時七人の城主は、いづれも、
「これは意外のお言葉。私どもは、一命をささげて国境を
守る決心でございます。」
と誓った。隆景は喜んで、それぞれ刀を与えた。宗治は、
「この刀は、国境の固め。かなはぬ時は、城を枕に討死
せよといふお心と思ひます。」
と、きっぱりといった。
 更に秀吉から、備中(びっちゅう)備後(びんご)の二
箇国を興へるから、みかたになってくれないか、とすすめら
れた時、宗治が、「だれが二君に仕へるものか。」と、しか
りつけるやうにいったこともあった。
 かうした宗治の態度に、秀吉はいよいよ怒って、軍勢を
さし向けたのであるが、知勇すぐれた城主、これに従ふ五
千の将士、たやすくは落ちるはずがなかった。
 すると秀吉に、高松城水攻めの計を申し出たものがあっ
たので、秀吉はさっそくこれを用ひ、みづから堤防工事の
指図をした。夜を日に継いでの仕事に、さしもの大堤防も、
日ならずしてできあがった。
 折から降り続く梅雨のために、城近く流れている足守川
(あもり)川は、長良川の水を集めてあふれるばかりであっ
た。それを一気に流し込んだのであるから、城の周囲のた
んぼは、たちまち湖のようになった。

 毛利方は、高松城の危ないことを知り、二萬の援軍を送っ
てよこした。両軍は、足守川をさしはさんで対陣した。
 その間にも、水かさはずんずん増して、城の石垣はすで
に水に没した。援軍から使者が来て、
「一時、秀吉の軍に降り、時機を待て。」
といひことであったが、そんなことに応じるような宗治で
はない。宗治は、あくまでも戦ひぬく決心であった。
 そこへ、織田信長が三萬五千の大軍を引きつれて、攻め
て来るといふ知らせがあった、輝元はこれを聞き、和睦を
して宗治らを救はうと思った。安国寺の僧 恵ケイ を招き、秀
吉方にその意を伝えた。和睦の条件として、毛利方の領
地、備中、備後、美作、因幡、伯耆の五箇国をゆずらうと
申し出た。
 秀吉は、承知しなかった。すると意外にも、信長は本能
寺の変にあった。これには、さすがの秀吉も驚いた。さう
して恵ケイに、
「もし今日中に和睦するなら、城兵の命は、宗治の首に代
へて助けよう」
といった。
宗治はこれを聞いて、
「自分一人が承知すれば、主家は安全、五千の命は助かる。」
と思った。
「よろしい。明日、私の首を進ぜよう」
と宗治は答へた。

 宗治には、向井治嘉(はるよし)といふ老臣があった。その日
の夕方、使者を以って、
「申し上げたいことがあります。恐れ入りますが、ぜひお
いでを。」
といって来た。宗治がたづねて行くと、治嘉は喜んで迎へ
ながら、かういった。
「明日御切腹なさる由、定めて秀吉方から検使が参るでご
ざいませう。どうぞりっぱに最期をおかざりください。
私は、お先に切腹をいたしました。決してむづかしいも
のではございません。」
腹巻を取ると、治嘉の腹は、真一文字にかき切られてい
た。
「かたじけない。おまへには、決して犬死をさせないぞ。」
といって、涙ながらに介錯(かいしゃく)をしてやった。
 その夜、宗治は髪を結ひ直した。静かに筆を取って、城
中のあと始末を一々書き記した。

 いつのまにか、夜は明けはなれていた。
 身を清め、姿を正した宗治は、巳(み)の刻を期して、城をあ
とに、秀吉の本陣へ向かって舟をこぎ出した。五人の部下
が、これに従った。
 向かふからも、検使の舟がやって来た。
 二さうの舟は、静かに近づいて、
満々とたたへた水の上に、舷(ふなばた)を並べた。
「お役目ごくらうでした。」
「時をたがへずおいでになり、御殊勝に存じます。」
宗治と検視とは、ことばすくなに挨拶(あいさつ)を取りかはした。
「長い籠城(ろうじやう)に、さぞお気づかれのことでせう。せめてものお慰みと思ひまして。」
といって、検使は、酒さかなを宗治に供えた。
「これはこれは、思ひがけないお志。えんりょなくいただきませう。」
主従六人、心おきなく酒もりをした。やがて宗治は、
「この世のなごりに、ひとさし舞ひませう。」
といひながら、立ち上がった。さうして、おもむろに誓願寺(せいがんじ)の
曲舞(くせまひ)を歌って、舞ひ始めた。五人も、これに和した。
美しくも、厳かな舞ひ納めであった。
 舞が終わると、
 浮き世をば今こそわたれもののふの名を高松の苔(こけ)にのこして
と辞世の歌を残して、みごとに切腹をした。五人の者も、
皆そのあとを追った。
 検使は、宗治の首を持ち帰った。秀吉は、それを上座にすえて、「あっぱれ武士の手本。」といってほめそやした。

(おわり)
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これで気がついた事は、ムカシの仮名使いの面倒なこと、これに尽きるでしょう〜。
転記するのに凄く苦労しましたよ!〜。
こんなに苦労するとは全く思いませんでしたね。

ただ、我々の小学校時代がそうだったわけですから、今更ながら気の毒だったな、と思うほかありません。
 国語古文となると、やはり、もう少し上の、中学、高校 から始めるのがスジだとも思ったりもするのですが?〜。

 尤も、現在の状況が判らないので、申し上げようがありませんが-------。

 いずれにしても、いくらムカシであったとは云え、これを読んで、ここで腹を切って死ぬ、とは、不合理極まりない結論だ、とは今でも思いますが、いかがでしょうか?。


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