2012年5月16日水曜日

アッツ島玉砕

あの頃の今頃から〜。

玉砕を初めて知ったわけですから驚きましたねえ〜。
私の小学校4年生の時でした。
ともあれ、このニュースは、今でも結構よく覚えています〜。


山崎陸軍大佐 最後の電文
5月29日14:35
敵陸海空の猛攻を受け、第一線両大隊は殆ど壊滅。辛うじて本一日を支ふるに至れり。夜戦病院に 収容中の
傷病者はその場に於て、軽傷者は自ら処理せしめ、重傷者は軍医をして処理せしむ
非戦闘員たる軍属は各自兵器をとり、陸海軍ととも一隊を編成、攻撃隊の後方を前進せしむ。ともに生きて捕
虜の辱めを受けざる様覚悟せしめたり。他に策無きにあらざるも、武人の最後を汚さんことを恐る。英魂ととも
に突撃せん
 
5月29日19:35
機密書類全部焼却、これにて無線機破壊処分す。 
玉砕
昭和18年5月30日、大本営はアリューシャン列島アッツ島守備隊の全滅を発表した。
アッツ島守備隊は、5月12日以来極めて困難なる状況下に寡兵よく優勢なる敵に対し血戦継続中のところ、5月
19日夜、敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し、皇軍の真髄を発揮せんと決意し、全力を挙げて壮烈なる攻撃を
敢行せり。爾後通信全く途絶、全員玉砕せるものと認む
傷病者にして攻撃に参加し得ざる者は、これに先立ち悉く自決せり。我が守備部隊は二千数百名にして、部隊長
は陸軍大佐山崎保代なり。敵は特殊優秀装備の約二万にして、5月28日まで与えたる損害六千をくだらず
 
アメリカの戦史は「突撃の壮烈さに唖然とし、戦慄して為す術が無かった」と伝え、「バンザイ・アタック」の名とともに今も讃えられている。
戦後の遺骨収集で、バンザイ突撃の最先頭のものが、山崎大佐のものであった事が確認されている。
 
日本軍          戦死者 2,638名、生還者 27名。
米軍 上陸11,000名中 戦死者 600名、戦傷者 1,200名。
 


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