昭和18年5月30日、大本営はアリューシャン列島アッツ島守備隊の全滅を発表した。
アッツ島守備隊は、5月12日以来極めて困難なる状況下に寡兵よく優勢なる敵に対し血戦継続中のところ、5月19日夜、敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し、皇軍の真髄を発揮せんと決意し、全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり。爾後通信全く途絶、全員玉砕せるものと認む。
傷病者にして攻撃に参加し得ざる者は、これに先立ち悉く自決せり。我が守備部隊は二千数百名にして、部隊長は陸軍大佐山崎保代なり。敵は特殊優秀装備の約二万にして、5月28日まで与えたる損害六千をくだらず。
アメリカの戦史は「突撃の壮烈さに唖然とし、戦慄して為す術が無かった」と伝え、「バンザイ・アタック」の名とともに今も讃えられている。戦後の遺骨収集で、バンザイ突撃の最先頭のものが、山崎大佐のものであった事が確認されている。
日本軍 戦死者 2,638名、生還者 27名。
米軍 上陸11,000名中 戦死者 600名、戦傷者 1,200名。
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/gyoku-attu.htm
アッツ島での玉砕は、最初の玉砕での敗北だったので、よく覚えています。部隊長が山崎の姓であるのも覚えています。
ただ、気の毒な敗北とは云え、それは不幸な例であって、その時点では それから先、玉砕がゾロゾロと続いて出るとは思ってもいませんでした。
ただ、気の毒な敗北とは云え、それは不幸な例であって、その時点では それから先、玉砕がゾロゾロと続いて出るとは思ってもいませんでした。
このアッツ島の玉砕は、アッツ・キスカ とセットで覚えているので、ほぼ同時だったのでしょう。
以下Wikipediaより。
1942年、日本軍はミッドウェー作戦の陽動作戦として、アッツ島をキスカ島と共に攻略、占領して熱田島と改称した。1943年5月、アッツ島奪還のためアメリカ軍が上陸し、日本軍守備隊と戦闘になる。日本軍のアッツ島守備隊は、物資不足もあり、アメリカ軍上陸半月後に全滅。「玉砕」の公認第一号となる。日本軍の守備隊指揮官は山崎保代陸軍大佐。これに対して、キスカ島守備隊は木村昌福少将率いる救援艦隊によって脱出・撤退に成功した。
載せた絵は検索からのもので 藤田画伯 絵。
ともあれ 、この玉砕に関する資料は、いろんなのを含めて かなり多く残されたのではないでしょうか。絵画の作品なども有名無名含めて、かなりの数拝見しているような憶えがあります。
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