朝日新聞に載った「特攻隊」を見て。
※ 最後の頃、特攻機には、双発の爆撃機も使用されましたね。
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特攻隊が特攻隊でなかった時期での実際戦闘はどうだったのだろうか。勿論 詳しく知る由はありません。 推測の範囲ですが、戦闘での敵の火砲による損害は相当に大きかったと思うのですよ。
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こちらからの爆撃となると単発の戦闘機が、それも単機で魚雷を抱いて海面スレスレに敵艦に近付く・・・・もうそれだけでも集中砲火を浴び犠牲はうなぎ上りに増大したと思いますね。加えて、魚雷を発射したあと、その魚雷が命中するかしないか、それには関係なしに、目の前に近付いて来る敵艦への衝突を避けるべく、急激上昇をする・・・その時こそ下方から集中砲火を浴びますよ。犠牲は大きかったのではないかなあ~~。毎回、ほぼ全滅に近くて、大部分が 未帰還機(残酷ながら懐かしい言葉。)だったと思いますね。
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それならば いっその事、魚雷発射の後は、そのまま敵艦に突っ込む・・・・同じ犠牲を出すならば、自分の機内に それなりの爆弾も抱いて、それ諸とも体当たりを敢行する事で、それまで以上に多大な損害を与える事ができる-------誰が考えても その結論が出たと思います。
又、海面からではなく上空高い所から敵艦に向かって急降下して爆弾を投下する、このケースにしても、投下後、ここでも次は急上昇です。やはり効率から考えればそのまま爆弾を抱いたまま突っ込んだ方が与える損害は大きくなりますよね。
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隊員達の気持ちはどうだったか?。ただ、推測では初期の頃と最後の頃では随分と違ったのではありませんか。まあ、最初の頃は 司令官はじめ大勢が、 千切れるばかりに手を振って見送りをしていましたね。然し、途中頃からか、何故か手を振っている見送りの新聞写真は一枚もありません(切り抜き帳に、その事を書いてあります。)。飛んで行く方も見送る方も、そこには感動も感激も消え失せて、単なるスケジュールに従って日程を消化していく無機質な作戦があるだけ。ともあれ、もう惰性だけだったのだと思われますが。
飛んで行く飛行機の燃料は片道分だけ、その余力に 爆弾だけは目一杯積んで行ったのでしょうね。・・・・唯々哀れですよ。
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とは申せ、あれこれと推し計るとなれば、亡き隊員達への冒涜 になりかねませんね。この点に関する限り、私の兄(同じ特攻隊員として鹿屋基地で待機中 終戦となり帰って来た。)の言葉を引用させてもらえば・・・・「あんまり関係がないみたいな気もするがなあ..」と、こうでした。ひとごと の様相でしたね。確かに、戦争が終わってしまえば もう他人事ですよ。振り返るサマは殆どありませんでした。むしろ振り返りたくないため・・・これが強かったような気もしますが。
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特攻隊が実行される以前であれ、とにかく切迫していたギリギリの時期だけに、もはや 帰還出来る見通しを持って飛んで行った隊員は居なかったと思われますね。だとすれば、同じように敵の砲火から逃れられないとしたら、もう そのまま突っ込んだ方がマシだ・・・・誰もが そう結論したとしても頷けない事はありません。私の兄も、それを承知で、そう納得して志願して出かけたものでした。特攻隊であろうがなかろうが関係なし・・・・そんな気持ちみたいでした。勿論、当然ながら霞ヶ浦で短期の訓練教育のあとは現地で 特攻要員として待機。
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ただ、軍として、いざ特攻作戦を決定してみて、攻撃態勢に変化が出たか?。・・・・そこまでは分りませんね。分るのは その時の米軍の写したフイルムを見る限り、目的通り敵艦に一直線に突っ込んで爆発した例は 思いの外 少なかったのではないか----と思うのですが実際はどうだったのだろう。兄が申す通り、ここでも 「あんまり関係がないみたいな気もするがなあ..」と、これだけであったとしたら悲しいですね。
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末期の頃は 飛んで行く飛行機を操る青年達は、愛国心とか必殺の信念、撃ちてしやまむ---その他モロモロ・・・そんなスローガンは どっかに行ってしまって、もう正気の状態ではなかったと思いますよ。
どんな心境だっただろう?、逃れられない運命だとすれば、単にそれに従うだけで、敵に損害を与えるとか、もうそう考える余裕もなく、ただ ふらふら と飛んで行って当ても無く敵の砲火を浴びて自滅していった例の方がはるかに多いような気がするのですが・・・。
確かに、初期の頃でも最後の頃でも出撃時の写真などを見る限り、誰もが 必死のツラがまえです。然し、後期では、上空に舞い上がって まず思う事は ただ自制心も何もどっかに消え失せて茫然自失としているオノレがあるのみ。「お母さん」と呼んで突っ込んだ若者が多いとも聞きましたが、それすら叫べないような心理状況ではなかったのか?。特に最後の頃は全く何も考えずに、呆然としていて、自爆の前に敵の機銃の滅多撃ちで打ち落とされるケースも多かったように思えるのですよ。
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繰り返しになりますが、これも米軍のフイルムからの記憶として、米側の立場に立って、迫り来る特攻機の恐怖をまざまざと見る思いがしたのは確かですが、どうして 特攻機は あのように無秩序にふらふら?と飛んで来るだけなのか、作戦があれだとは到底思えないし、だとすれば、目的を失ったごとく、単に 飛んで来てそのまま何もせずに米軍の餌食になってしまっている、と、そう判断した方が正しいと思いましたね。
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まあ、それ以上となると個々のケースでの違いもあるだろうし、理解の範疇を超えます。
そてにしても、当時の特攻隊、と云っても乗っている兵士はハタチ前、今で申せば中学を卒業していくらも経って ない年頃なのではありませんか?。
因に、特攻隊として九州の鹿屋基地で出撃命令を待っていた私の兄がそんな年でしたので。
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更に申し上げれば、兄が予科練に入ったのは、仲間達から見れば少し遅れていましたね。仲間が ぞろぞろと行くのに、自分だけが取り残される・・・それへの焦燥感、これが大きかったみたいでした。その頃は既にかなりの仲間が命を失っていましたよ。それらに対しても自分だけが生きていていいものか、とかの焦燥感が、ありありと見られましたね。
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・・・・そんな こんなで、好むとこのまざるとに関係なしに、時代が そして戦争が、あの頃の青少年達を 遮二無二戦場へと駆り立てていったのでしょう。
ともあれ、終戦と同時に戻って来た兄は、その後、戦争のハナシに触れる事は殆どありませんでした。兄の人生には「戦争はなかった」のだと思いますね。仮に それがあったのだとしたら生きていられない心境だったのだと思いますが・・・。
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