2012年9月15日土曜日

昔はよかった

以下は、かって ここに載せた文面からです。
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「昔は良かったか。」との設問にはイエスかノウかの答えだけで中間はなさそうです。但し、時と場合によってはイエスとノウが常にひっくり返ります。その時の都合で立場が変転するわけです。然し、どちらにせよ軽口ですから人畜無害、つまり、どうという事はありません。


 私の「昔」はどうだったか。これも同じで、見方によっては「良かった」となるし、逆に「悪かった」ともなりそうです。
 然しながら、私の「昔」は子供の頃、それは戦前から戦中、そして戦後、となるので、本当を申せば、その「むかし」が良いわけはありません。まず食料についての健康対策が貧弱でした。戦時中だからというだけではなくして、あまりにも米中心の食生活だったので、栄養が偏り過ぎていたのかも知れません。然し、山に行けば山菜取りなども結構出来たので、生きて行く智恵と努力が多少足りなかったと云われてもやむを得ませんね。
 着るものはボロボロ。それにしても当時は「機場(はたば)」と称する小さな織り物工場が方々に見かけました。本当は衣料品は充足していたのです。貧乏で買えなかった事もあったと思いますが、いつでも手に入る気安さからボロでも構わなかったとも云えそうです。
 電気がつくのは夜だけでした。三部屋に60ワットの裸電球が一つ。
 滅多に沸かさない風呂では薪を使っていました。又 コンロは電気ではなく炭です。----その他、あげればキリがありません。
「おぢいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは・・・・」こんな文句がぴったりするように、実際に山で燃料用の木を伐採している男達の姿も散見出来た時代でした。又、山に行けば「炭焼ぢいさん」がちゃんといて、本当に炭を焼いていたのです。 ただ、大昔とは違って、住宅地への送電が可能なだけの小さな発電所などがあったのですから確かに昭和の時代ではありました。
 私の住んでいたのは山形市、市とは云え当時は文字通り「山の中」の寒村です。海からは遠いので魚は干物が中心、刺身など殆ど食えません。
 然し、川魚が豊富、手当りしだい釣って来た鯉や鮒も結構食ったもの。
 果物は 桜桃や梨、柿、りんご、ぶどう、など。従って、ビタミン欠乏症になる心配は無用でした。

 そんな生活を現在と比較してとやかく云う事は簡単です。なにせ、テレビ、クーラー、クルマ、それらから更に、ハンバーグ、ステーキ、コーヒー、ジュース、更にコンビニ、フアストフード、アウトレット・・・・・そんなモノは一切無かったのですから、比較すれば確かに昔は惨めな暮らしをしていた事になります。従って、昔は昔、今は今、本当に現在は素晴らしい、の一言に尽きます。昔は全く詰まらない生活をしていたのです。


 但し、幸福だったかどうかは気持ちの持ち方一つで決まるもの、従って一概に昔がどうの、とは言えない。それは紛れも無く正論です。

然し、ここではそう云って「したり顔」をするつもりはありません。



 最も大切だと考える事は----。

 昔は、衣食住すべてを含めて、生活を支えるすべての殆どが生活している人間の目の届く範囲で出来上がっていた、という事実です。家庭に持ち込まれるエネルギーは、炭でも薪でも石炭にしろ日常的に目で見える場所で目に見える形で得られていました。電気ですら郊外の小さな発電所で賄われていたのです。食料もそうです。米を中心に魚、果物、野菜、とにかくそれらは実際に手で触れる場所で手に入りました。一方、石油からの恩恵は家庭生活には皆無かつ無縁でした。



 この国家的な自給自足に近い原則が崩れたのは戦後でした。敗戦によって国土は廃虚と化したからです。国土の荒廃は国民生活を直撃しました。夥しい餓死者が出ていたのはつい最近までのように私には思えます。

 現在はどうだろうか。一見、国土は戦前にまして豊かな姿をしているようですが、潰されたタンボを見ただけでその全体像が浮かび上がってくるように形姿は美しくとも、その中身は戦争中以上の荒廃を招いています。



 家庭に入って来るエネルギーは一体どこから来ているのだろうか。食料はどうだろうか。衣類はどうか。-----考えてみた事がありますか。



 非常に無気味なのです。何もかも目で見えない所からやって来て、現在の私共の生活を支えているその事が恐ろしいのですよ。

 貴方はどう思いますか。無気味な今の生活が昔より良い、と断言出来ますか。



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