2012年12月8日土曜日

危急の日に〜



危急の日に 高村光太郎

「此日天気晴朗なれども波高し」とあの小さな三笠艦が曾て報じた。
波大いに高からんとするはいづくぞ。
いま神明の気はわれらの天と海とに満ちる。
われは義と生命とに立ち、かれは利に立つ。
われは義を護るといひ、かれは利の侵略といふ。
出る杭を打たんとするは彼にして、東亜の大家族をつくらんとするは我なり。
有色の者何するものぞと彼の内心は叫ぶ。
有色の者いまだ悉く目さめず、憫むべし。
彼の願使に甘んじて共に我を窮地に追はんとす。
力を用いるはわれの悲しみなり。
悲愴堪へがたくして、いま神明の気はわれらの天と海とに満ちる。



国語の教科書に載った12月8日  
以下は当時の小学校の国語に載った12月8日の項目です。
但し、この教科書は私共よりあとの生徒向けのもので、開戦当時2年生だった私は教わっていませんが---参考のため ご覧下さい。
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 昭和十六年のこの日こそ、われわれ日本人が、永久に忘れることのできない日である。
 この朝、私は、ラジオのいつもと違った声を聞いた。さうして、「帝国陸海軍は、本八日未明、西大平洋において、米英軍と戦闘状態に入れり。」
といふ臨時の知らせを聞いて、はっとした。
 私は、学校へ急ぎながらも、胸は大波のやうにゆれてゐた。勇ましいような、ほこらしいやうな、それでゐて、底の底には、何か不安な気持ちがあることを知って、「いつ、米英の飛行機が飛んで来るかも知れないのに、こんなことでどうするか。」と、自分を励ました。

 朝礼の時間に、校長先生から、戦争の始まったことについてお話があった。
「東亜におけるわが国の地位を認めず、どこまでも横車を押し通そうとした米国、及び英国に対して日本は敢然と立ち上がったのですよ。いよいよ、来るものが来たのです。私たちは、もうとっくに、覚悟がきまってゐたはずです。」
 初冬の澄み切った日ざしが、運動場を照らし、窓を通して教室にさし込んでゐた。
 四時間目に、みんな講堂へ集まった。さうして、その後のやうすをラジオで聞いた。
 「ハワイ空襲。」とか、「英砲艦撃沈。」とか、「米砲艦捕獲。」とか、矢つぎ早の勝報である。みんな、胸にこみあげるうれしさを押さへながら、熱心に聞き入った。
 お昼過ぎには、おそれ多くも今日おくだしになった宣戦の大詔が、ラジオを通して奉読された。君が代の奏楽ののち、うやうやしく奉読されるのを、私たちは、かしこまって聞いた。
 お言葉の一言一句も、聞きもらすまいとした。そのうちに、私は、目も、心も、熱くなって行くのを感じた。
 「天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祖ヲ践メル大日本帝国天皇」
 と仰せられる国がらの尊さ。この天皇の御ためなればこそ、われわれ国民は、命をささげ奉るのである。さう思ったとたん、私はもう何もいらないと思った。さうして心の底にあった不安は、まるで雲のやうに消え去ってしまった。
 「皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ」
と仰せられている。私は、神武天皇の昔、高倉下(たかくらじ)が神剣を奉り、金のとびが御弓の先に止まったことを思った。天照大神が、ニニギノミコトにくだしたまうた神勅を思った。神様が、この国土をお生みになったことを考えた。
 さうだ。私たち国民は、天皇陛下の大命を奉じて、今こそ新しい国生みのみわざに、はせ参じてゐるのである。勇ましい皇軍はもとより、国民全体が、一つの火の丸となって進むときである。私たち少国民も、この光栄ある大きな時代に生きているのである。
 私はすっかり明るい心になって、学校から帰った。うちでも、母は、ラジヲの前で戦況に聞き入ってゐた。
 「お母さん、私は、今日はほんたうに日本の国のえらいことがわかりました。」
といふと、母も、
 「ありがたいお言葉を聞いて、まるで天の岩戸があけたやうな気がしますね。さあ、私たちも、しっかりしませうよ。」
といって、目に涙をためながら、じっと私を見つめた。
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「註」・・・繰り返しますが、この項目は時期がずれていて習わっていません。教科書の内容は、戦況の変化につれて、短期間で次から次へと変わっていった時代でした。終戦近くになってこの項目を教わる事はあり得ませんでしたね。


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