2012年4月17日火曜日

最初の東京空襲

 ドーリットル中佐

 
  ノースアメリカンB-25

 
  航空母艦「ホーネット」

  東京が最初に空襲の被害にあったのは、1942(昭和17) 年4 月18日正午過ぎだった。ハワイ真珠湾攻撃から約4か月半後、日数にして132 日目
である。空襲したのは、ノ-ス・アメリカンB25 16機で、指揮官ドウ リットル=James. H.Doolittle=中佐の名をとって
「ドウ リットル隊の空襲」といわれている。

 B25は、900 kg の爆弾を積み、150 m の滑走で離陸することができ、航続距離は3000kmという当時としては画期的な攻撃機だった。

 空襲の当日、東京まで1235km離れた犬吠崎の東の海上で、B25は航空母艦「ホ-ネット」 から発進した。

日本側は、無線連絡で本土空襲近しと判断したものの、まだ1000km以上離れていたので、飛来するのは19日以降と踏んでいた。

日本軍の航空母艦は小型機しか艦載していなかったので、3000km飛べる中型機を載せているとは考えつかなかった。

 したがって、途中、反撃出来ないまま、日本本土へ飛来し、空襲警報は第1弾投下から14~15分後に出る始末だった。

攻撃目標は軍事施設に限っていたというが、かならずしも守られていない。

・警視庁の記録

 東京攻撃は6機、他は川崎、横須賀、横浜、名古屋、大阪、神戸へ向かう。

 東京では、爆弾250 ㌔級6発、焼夷弾452 発が 投下され、荒川区、北区、 文京区中心に住宅が焼ける 。死者 39人、重軽傷者234人。

・東部軍司令部は午後1時57分、ラジオを通じて次のような発表をした。

「午後零時30分ごろ、敵機数方向より京浜地方に来襲せるも、わが空・地両防空部隊の反撃を受け逐次退散中なり。

現在まで判明せる撃墜9機にしてわが方の損害は軽微なる模様なり。皇室は御安泰にわたらせらる」

・ドウ リットル隊は日本全国十数個所を奇襲攻撃し、死者約50人 けが400人の被害を与えた。

攻撃機16機は日本上空では無傷まま、中国、ソ連へ向かい、途中、搭乗員は落下傘で降下した。

搭乗員80人のうち、8人は日本の捕虜になり、3人は死刑になったが、その他は大部分が無事帰国した。

 この最初の東京空襲で軍部の面目はまるつぶれとなり、本土防衛強化へ向かう。
 国民の間では、連戦連勝の気分が吹き飛ぶ。その後、ミッドウエ-海戦に破れ、日本軍は退却を迫られる。
 http://www2u.biglobe.ne.jp/~akiyama/no67.htm
 以上 各検索から。
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 この時の空襲は文字通り 寝耳に水 でした。まさか あの時日本が空襲を受けるとは思ってもみませんでした。
 死者の中に学童が一人いた筈で、全国的に〇〇君のカタキを討とうとの声が起きたのですが、それにしても、
よくぞまあ防空完備のあの時に飛来出来たもんだとホントに驚きました。
 つまり、完備している筈の防空網にスッポリ抜けている箇所があったのですよ。
 世の中、そんなもんでしょうなあ~~。とにかく飛んで来る敵機に対して、帽子を振ったり手を挙げたりして
迎えた日本人はワンサと居たとのハナシでしたから。

 この双発の爆撃機が航空母艦から飛んで来たとは、ちょっと信じられませんでしたね。

 ※ この当時、私は、国民学校 4年生。まだ新聞切り抜きはやってませんでした。

写真は、空母ホーネット ノースアメリカンB-25爆撃機 ドーリットル中佐。

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