月光の曲
薄暗い小路を通り、ある小さなみすぼらしい家の前まで來ると、中からピヤノの音が聞える。
「ああ、あれはぼくの作つた曲だ。聞きたまへ。なかなかうまいではないか。」
かれは、突然かういつて足を止めた。
二人は戸外にたたずんで、しばらく耳を澄ましてゐたが、やがてピヤノの音がはたとやんで、
「にいさん、まあ何といふいい曲なんでせう。私には、もうとてもひけません。ほんたうに一度でもいいから、
演奏會へ行つて聞いてみたい。」
と、さも情なささうにいつてゐるのは、若い女の聲である。
「そんなことをいつたつて仕方がない。家賃さへも拂へない今の身の上ではないか。」
と、兄の聲。
「はいつてみよう。さうして一曲ひいてやらう。」
ベートーベンは、急に戸をあけてはいつて行つた。友人も續いてはいつた。
薄暗いらふそくの火のもとで、色の靑い元氣のなささうな若い男が、靴を縫つてゐる。
そのそばにある舊式のピヤノによりかかつてゐるのは、妹であらう。
二人は、不意の來客に、さも驚いたらしいやうすである。
「ごめんください。私は音樂家ですが、おもしろさについつり込まれてまゐりました。」
と、ベートーベンがいつた。妹の顔は、さつと赤くなつた。
兄は、むつつりとして、やや當惑(たうわく)のやうすである。
ベートーベンも、われながら餘りだしぬけだと思つたらしく、口ごもりながら、實はその、
今ちよつと門口で聞いたのですが──
あなたは、演奏會へ行つてみたいとかいふことでしたね。まあ、一曲ひかせていただきませう。」
そのいひ方がいかにもをかしかつたので、いつた者も聞いた者も、思はずにつこりした。
「ありがたうございます。しかし、まことに粗末なピヤノで、それに樂譜もございませんが。」
と、兄がいふ。ベートーベンは、
「え、樂譜がない。」
といひさしてふと見ると、かはいさうに妹は盲人である。
「いや、これでたくさんです。」
といひながら、ベートーベンはピヤノの前に腰を掛けて、すぐにひき始めた。
その最初の一音が、すでにきやうだいの耳にはふしぎに響いた。
ベートーベンの兩眼は異樣にかがやいて、その身には、にはかに何者かが乘り移つたやう。
一音は一音より妙を加へ神に入つて、何をひいてゐるか、かれ自身にもわからないやうである。
きやうだいは、ただうつとりとして感に打たれてゐる。
ベートーベンの友人も、まつたくわれを忘れて、一同夢に夢見るここち。
折からともし火がぱつと明かるくなつたと思ふと、ゆらゆらと動いて消えてしまつた。
ベートーベンは、ひく手をやめた。
友人がそつと立つて窓の戸をあけると、清い月の光が流れるやうに入り込んで、ピヤノのひき手の顔を照らした。
しかし、ベートーベンは、ただだまつてうなだれてゐる。
しばらくして、兄は恐る恐る近寄つて、 「いつたい、あなたはどういふお方でございますか。」
「まあ、待つてください。」
ベートーベンはかういつて、さつき娘がひいてゐた曲をまたひき始めた。
「ああ、あなたはベートーベン先生ですか。」
きやうだいは思はず叫んだ。
ひき終ると、ベートーベンは、つと立ちあがつた。三人は、「どうかもう一曲。」としきりに頼んだ。
かれは、再びピヤノの前に腰をおろした。
月は、ますますさえ渡つて來る。
「それでは、この月の光を題に一曲。」
といつて、かれはしばらく澄みきつた空を眺めてゐたが、やがて指がピヤノにふれたと思ふと、やさしい沈んだ調べは、
ちやうど東の空にのぼる月が、しだいにやみの世界を照らすやう、一轉すると、今度はいかにもものすごい、
いはば奇怪な物の精が寄り集つて、夜の芝生(しばふ)にをどるやう、
最後はまた急流の岩に激し、荒波の岩に碎けるやうな調べに、三人の心は、驚きと感激でいつぱいになつて、
ただぼうつとして、ひき終つたのも氣づかないくらゐ。
「さやうなら。」
ベートーベンは立つて出かけた。
「先生、またおいでくださいませうか。」
きやうだいは、口をそろへていつた。
「まゐりませう。」
ベートーベンは、ちよつとふり返つてその娘を見た。
かれは、急いで家へ歸つた。さうして、その夜はまんじりともせず机に向かつて、かの曲を譜に書きあげた。
ベートーベンの「月光の曲」といつて、不朽の名聲を博したのはこの曲である。
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因に、当時 音楽室に掲げてあったベートーベンの肖像画が、乗せた繪と同じでした。
尤も、ベートーベンと云えば、この画以外は見た事がありませんでしたね。
この絵は、いろんな所で目にするので、多分、有名な画家が描いたのでしょう〜。
実は、これを教科書で教わったあと、音楽室でレコードで聴かされたのですが、何がなんだかサッパリ分からぬうちに曲は終了しましたよ〜。
まあ〜現在は、あの頃から思えば、結構進歩はしていると思っている次第ですが〜。
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