聖職叙任権をめぐってローマ教皇グレゴリウス7世と対立していた神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が、1077年1月25日から3日間、教皇による破門の解除を願って北イタリアのカノッサ城に赴いて許しを願ったことをいう。(wikipedia)
Pénitence de Canossa フランス語、「贖罪、改悛」
この語は「罪を認めること」「後悔すること」「罪を購うか償うこと」の3つの概念を含んだ、宗教的色彩の強い語です。
一方日本語の「屈辱」は一切そのような宗教色を含んでおらず、またフランス語のペニタンスのどの意味ともずれているようです。
Canossagang デンマーク語,ノルウェー語、これもドイツ語とほとんど同じ意味です。
Хождение ロシア語、たぶん「遍歴」の意味でしょう。Gang や way と近いですね。
結局わたしも日本語の訳がどこから来たのかわかりませんでした。
(以上 検索より お借りしました。)
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以下 wikipediaより。
かねてからハインリヒ4世への敵対意識の強かったザクセン公はじめドイツの諸侯たちは、これを機会にとばかりハインリヒ4世に叛旗を翻し、1077年2月にアウクスブルクにおいて会議を開いて新しいドイツ王を決めることを決定し、権威の付与者にして仲裁者として教皇を会議へ招聘した。諸侯はハインリヒ4世が教皇に謝罪しなければ後継王が決まらずとも王位を空位とみなすことも決議した。ここにいたってハインリヒは完全に手詰まりとなり、教皇に使節を送って許しを乞うた。教皇がこれを拒絶したため、皇帝は自ら教皇に謝罪することになった。
1077年1月、突然現れたハインリヒに教皇は戸惑い、捕縛を恐れて城から出ようとしなかった。ハインリヒは武器をすべて置き、修道士の服装に身をつつんで城の前で教皇に赦しを求めた。教皇は破門を解く旨を伝え、ローマへ戻った。
ハインリヒはドイツに戻ると直ちに反対派の諸侯を制圧し王権を確立した。その後、再び叙任権をめぐって両者は争うが、今度はハインリヒが軍勢を率いてイタリアに乗り込みローマを囲んだ。教皇は辛くも包囲を脱出し、1085年にイタリア南部のサレルノで客死した。叙任権闘争は、ドイツ南部のヴォルムスで叙任権は教皇にあることを定めた協約(ヴォルムス協約)が成立する1122年まで続いた。
後世への影響 [編集]
この事件は叙任権闘争、ローマ教皇対神聖ローマ皇帝の長期の抗争における一事件でしかないが、この後ローマ教皇庁では皇帝ですら教皇に跪いたと教皇権の優位性の宣伝に使われた。一方16世紀になると、ドイツのプロテスタントは反教皇の立場からこの事件を取り上げた。19世紀には民族主義の高まりの中でビスマルクが、この事件をドイツの屈辱として取り上げるなど、政治的宣伝に利用された。ヨーロッパでは現在でも「カノッサの屈辱」は「強制されて屈服、謝罪すること」の慣用句として用いられている。
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私の場合は、歴史となると、小中高、いずれでも日本史だった(こちらからの選択も入れて)ので、西洋史となると必要な時に必要箇所を調べてみる-----と、そんな程度だったでしょうか。
従って、このような、「教皇」と「皇帝」の、どっちがエラいのか?-----とかなると、正直 途方に暮れたものでしたよ。
まあ〜それはそれ、ここでの逸話は、今に至れば、結構面白く受け取れますね。
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