B25は、900 kg の爆弾を積み、150 m の滑走で離陸することができ、航続距離は3000kmという当時としては画期的な攻撃機だった。
空襲の当日、東京まで1235km離れた犬吠崎の東の海上で、B25は航空母艦「ホ-ネット」 から発進した。
日本側は、無線連絡で本土空襲近しと判断したものの、まだ1000km以上離れていたので、飛来するのは19日以降と踏んでいた。
日本軍の航空母艦は小型機しか艦載していなかったので、3000km飛べる中型機を載せているとは考えつかなかった。
したがって、途中、反撃出来ないまま、日本本土へ飛来し、空襲警報は第1弾投下から14~15分後に出る始末だった。
攻撃目標は軍事施設に限っていたというが、かならずしも守られていない。
・警視庁の記録
東京攻撃は6機、他は川崎、横須賀、横浜、名古屋、大阪、神戸へ向かう。
東京では、爆弾250 ㌔級6発、焼夷弾452 発が 投下され、荒川区、北区、 文京区中心に住宅が焼ける 。死者 39人、重軽傷者234人。
・東部軍司令部は午後1時57分、ラジオを通じて次のような発表をした。
「午後零時30分ごろ、敵機数方向より京浜地方に来襲せるも、わが空・地両防空部隊の反撃を受け逐次退散中なり。
現在まで判明せる撃墜9機にしてわが方の損害は軽微なる模様なり。皇室は御安泰にわたらせらる」
・ドウ リットル隊は日本全国十数個所を奇襲攻撃し、死者約50人 けが400人の被害を与えた。
攻撃機16機は日本上空では無傷まま、中国、ソ連へ向かい、途中、搭乗員は落下傘で降下した。
搭乗員80人のうち、8人は日本の捕虜になり、3人は死刑になったが、その他は大部分が無事帰国した。
この双発の爆撃機が航空母艦から飛んで来たとは、ちょっと信じられませんでしたね。
※ この当時、私は、国民学校 4年生。まだ新聞切り抜きはやってませんでした。
写真は、空母ホーネット ノースアメリカンB-25爆撃機 ドーリットル中佐。
0 件のコメント:
コメントを投稿