文面が昔風の「候文(そうろうぶん)」、これが懐かしいですね。
ただ、教わっていた時の気持ちからでは、この文は一寸おかしいのではないか、とかの気持ちもありましたね。
障子に破れが生じたとしたら、昔も、今でも、全部を張り替える事はせずに、敗れた箇所のみを張り替える方がリクツにも合う-------それは別に節約の考えのみならず、当座の対応としては余計に その方が簡便であるし、別段見苦しいサマにもならない、と、その気持は現在であれ、誰もがそう考えるのではありませんか。
障子に破れが生じたとしたら、昔も、今でも、全部を張り替える事はせずに、敗れた箇所のみを張り替える方がリクツにも合う-------それは別に節約の考えのみならず、当座の対応としては余計に その方が簡便であるし、別段見苦しいサマにもならない、と、その気持は現在であれ、誰もがそう考えるのではありませんか。
加えて、私が知る限りでは、その場合は花びらの形状などの切り張りにして、ちょっと彩りを加える時もあって、それはそれで結構風情があるものでしたよ。
障子、襖であれ、畳であれ、どこかが破れたから、その都度、すべて 修理をプロに頼むとなったら、当然ながら出費が嵩むのは勿論、加えて結構面倒なものですよ。
まあ〜松下禪尼となれば、出費であれ何であれ、それを惜しまぬ方だったでしょうから、我々庶民とは違った目で見られていたのは分かるとしても、です。
---- それにしても「松下禪尼」とは懐かしいですなあ〜。その名は、すぐに “ 障子貼り” に直結しますからネ〜。
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