2010年11月30日火曜日

特攻隊

 

 
  予科練時代の兄

 
  戦後の兄(今は既に居ない)

 特攻隊が特攻隊でなかった時期での実際戦闘はどうだったのだろうか。勿論 詳しく知る由はありません。 推測の範囲ですが、戦闘での敵の火砲による損害は相当に大きかったと思うのですよ。

 こちらからの爆撃となると単発の戦闘機が、それも単機で魚雷を抱いて海面スレスレに敵艦に近付く・・・・もうそれだけでも集中砲火を浴び犠牲はうなぎ上りに増大したと思いますね。加えて、魚雷を発射したあと、その魚雷が命中するかしないか、それには関係なしに、目の前に近付いて来る敵艦への衝突を避けるべく、急激上昇をする・・・その時こそ下方から集中砲火を浴びますよ。犠牲は大きかったのではないかなあ~~。毎回、ほぼ全滅に近くて、大部分が 未帰還機(残酷ながら懐かしい言葉。)だったと思いますね。
 
 それならば いっその事、魚雷発射の後は、そのまま敵艦に突っ込む・・・・同じ犠牲を出すならば、自分の機内に それなりの爆弾も抱いて、それ諸とも体当たりを敢行する事で、それまで以上に多大な損害を与える事ができる-------誰が考えても その結論が出たと思います。
 又、海面からではなく上空高い所から敵艦に向かって急降下して爆弾を投下する、このケースにしても、投下後、ここでも次は急上昇です。やはり効率から考えればそのまま爆弾を抱いたまま突っ込んだ方が与える損害は大きくなりますよね。
 
 隊員達の気持ちはどうだったか?。ただ、推測では初期の頃と最後の頃では随分と違ったのではありませんか。まあ、最初の頃は 司令官はじめ大勢が、 千切れるばかりに手を振って見送りをしていましたね。然し、途中頃からか、何故か手を振っている見送りの新聞写真は一枚もありません(切り抜き帳に、その事を書いてあります。)。飛んで行く方も見送る方も、そこには感動も感激も消え失せて、単なるスケジュールに従って日程を消化していく無機質な作戦があるだけ。ともあれ、もう惰性だけだったのだと思われますが。
 飛んで行く飛行機の燃料は片道分だけ、その余力に 爆弾だけは目一杯積んで行ったのでしょうね。・・・・唯々哀れですよ。

 とは申せ、あれこれと推し計るとなれば、亡き隊員達への冒涜 になりかねませんね。この点に関する限り、私の兄(同じ特攻隊員として鹿屋基地で待機中 終戦となり帰って来た。)の言葉を引用させてもらえば・・・・「あんまり関係がないみたいな気もするがなあ..」と、こうでした。ひとごと の様相でしたね。確かに、戦争が終わってしまえば もう他人事ですよ。振り返るサマは殆どありませんでした。むしろ振り返りたくないため・・・これが強かったような気もしますが。

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