2011年12月25日日曜日

「カラマーゾフの兄弟」から

 

この本の中で最も秀逸だとされている箇所、それは第五章の五「大審問官」ですが、それをダイジェスト風にして取り上げてみる事にします。

但し、かなりラフなダイジェストだと言う事は言うまでもありません。何卒御勘弁下さい。

鋭利な頭脳を持つ次男のイワンが、心優しく信仰心に篤い三男アリョーシャに対して語る「無神論」、それが、[大審問官]のテーマになっています。

 イワンの話の舞台はスペインのセビリア、時代は中世。                                         
 なお、この小説が発表されたのは1880年、日本では明治の初め頃です。           

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イワンが話し出します。

[「....キリストが地上の世界の凄まじさに心を痛め、ほんのちょっと民衆の所へ下ってやろうと決心したのだ。それは、百人に近い異教徒が、

国王はじめ、廷臣、騎士、僧正、女官、及びセビリアの夥しい群集の前で、大審問官の号令のもとに、一度に焼き殺された翌日であった。

 セビリア宮殿の前の広場に降り立った彼キリストを見て、奇妙な事に、群集は皆同じようにそれが主であることを悟ったのだ。

群集はキリストの回りを取り囲みぞろぞろと後ろについていった。彼は憐憫の表情を浮かべて太陽のように光明を放ち群集に向かって手を差し伸べ

そして祝福したのだ。彼の全身に触れただけで群集の心の傷、身体の傷は即座に癒された。眼の不自由な者の眼は瞬時にして回復した。

群集はあまりの有り難さに、彼の踏んだ地面に対して接吻をし、子供等は花を投げて歌った。

『これはきっと本当のイエス様なのだ、イエス様でなくて誰あろうか....』と。

 やがて彼はセビリア宮殿の玄関に着き、そこで、死んだ幼女を抱え嘆き悲しむ母親の目の前でその子を生き返らせた。

群集の間には動揺と叫喚と慟哭が起こった。-----その時丁度、そこを大審問官が通りかかったのである。

 大審問官は九十近く、然し、背丈の高い腰の真直ぐな眼光鋭い老人であった。彼は多数の助役、奴隷、護衛、それらを連れていた。

彼はその場に来て、事の次第を即座に理解したのである。彼は躊躇せずキリストを召し捕る事を護衛に命じた。

キリストは捕らえられ、神聖裁判所の中にある暗い牢獄に入れられ鍵を掛けられたのであった。

  翌日、鉄の牢は開けられて、老いたる大審問官が手に明かりを持って中に入り、一人でキリストで向かい合う事になった。 
 「お前はイエスか?。イエスか?」然し。返事はなかった。「よろしい、黙っているがいい。それにお前には何も言える権利などないのだ。

昔に言った事以外に何ひとつ何一つ付け足す事などないのだ。・・・何故お前は我々の邪魔をしに来たのだ、お前は明日どうなるか知っているのか?。

お前が本当は何者なのか知らぬ。本当のイエスなのか偽者なのか、それはどうでもよい。

とにかく、明日はお前を裁判にかけ異教徒ととして烙き殺すだけだ。

今日お前の足に接吻した者達はどうするか、明日は私のちょっとした合図でお前を火の中に放り投げるだろうよ。

お前はそれを知っているだろうな?、勿論知っているだろうよ。」----大審問官はそう言って一分間も囚人の顔を無言で見え据えたのだ。

  大審問官は続けます。

「・・・・焼け野原に転がっているこの石を見ろ。

 もしお前がこの石をパンにする事が出来たら、すべての者達は感謝の念を抱いてお前の後をぞろぞろとついて行くだろう。

お前がパンを寄越さなくなるのではないかとそれを恐れ、永久について行くに違いない。

ところがお前は自分に対する民衆の服従がパンでもって買われたものであるとするならば、それは民衆から自由を取り上げる事になってしまう、

どうしてそれが自由と呼べるものか、それをお前は知ったのだ。

『人はパンのみにて生きるにあらず』これがお前の答えだったのだ。石をパンに変える事など到底出来なかったのだ。

 かってプロメテウスが人間に火を与えたごとく、ある悪魔がお前にパンの名をもって反旗を翻し、お前と闘って勝利して、結果として、

群集がその悪魔の後について行く姿をお前は知らないわけはない。ともあれ現在の世界には飢えたる人間があるだけなのだ。

『食を与えたあとに善行を求めよ』そう叫ぶ人々がお前の神殿を破壊してしまうのだ。

 お前は新しい塔を築くに違いない。然し、これも完成する見通しはない。

もし、お前が塔を建てなければ一千年は人々の苦痛を和らげられたかも知れない。

然し、お前はそうはしなかった。人々はどうしたか。民衆は我々の所へやって来たのだ。

『私共に食べ物を下さい。私共にプロメテウスの火を盗んでやると約束した人が嘘をついたのですよ』

 我々はお前の塔を完成させてやる。そして、お前の名をかたって民衆に食い物を与える事で、我々だけがお前に出来なかった塔を作れるのだ。

彼等に自由を与えてはならない。その自由のために彼等は永久に食い物にありつけないのだ。

彼等は自分の自由を投げ出して、『食い物を下さい。奴隷になっても構いませんから』と言うのだ。

自由とパンはいかなる人間にとっても両立しない、その事を彼等自身が悟るのだ。

 民衆なんて愚か者でバカなのだ。そんな低俗な人間から見て、天上のパンが地上のパンと同じに見えるのか。

一千人や一万人はそれを目指してお前のあとをついて行くかも知れないが、数百数千万の人間はどうするか。

我々はその彼等をお前の名のもとに救済するのだ。すべてはキリストのために、と、な。そうやって我々は彼等の上に君臨するのだ。

 さあ、荒れ野での第一の問題はここにあったのだ。お前は何よりも大切にしていた自由のために、大変なものを切り捨てたのだ。                                       
 人間というものは、万人が間違いなしに崇拝出来るものを求めている。どうしてもすべての人と一緒でなければ承知しないのだ。

そのために人間はこれまで実に多くの殺戮を重ねてきた。この世の歴史は殺し合いの歴史で埋められている。<お前達の神を捨てて我々の神を信じろ。

そうしないと皆殺しにするぞ>こういうわけだ。お前がこの理屈を知らないわけはない。知っている筈だ。知っていてお前は人々を跪かせるために、

天上のパンと自由の名のもとに地上のパンを捨てたのだ。

 人間生活には、単に生きる事だけではなく、何のために生きるか、それが明確であれば周囲にいくらパンを積まれたところで動じないが、

 お前はどうしたか、

 人間の良心を永久に慰める確固たる根拠も与えずにして、異常な、謎のような、とりとめのない、人間にはとても出来ないようなものを取って

与えたのだ。お前は人間の良心を支配する代わりに、逆にその良心を増大させた。

人間はその苦しみによって永久に重荷を背負わされる事になってしまったのだ。

何が善であり何が悪なのか、人間は自分自身で決めなければならなくなった。

人間の前にはお前の姿があるだけ。恐ろしい重圧が人間を圧迫し続けるので、やがて人間は「真理はキリストの中にはない!」と叫び出すのだ。

人間は惑乱と苦痛の中に取り残されてしまったのだ。そんな残酷な事はとても出来る事ではない。

 お前は自分で自分の王国を崩壊させる基礎を築いたのだ!。

下らない人間共を支配し征服するための方法はこの地上に三つしかない。奇跡と神秘と教権である。その三つともお前は捨て去ってしまった。

 悪魔がお前をがけっぷちに立たせてこう言った。

「お前が神の子ならば、この崖から飛び下りてみろ。途中で天使がやってきてお前が落ちて死なないように受け止めてくれるだろう。

そうしたら本当にお前が神の子かどうか分かる。その時は天なる父に対する信仰も深まる。」

然し、お前は飛び下りはしなかった。人間は奇跡を否定するやいなや神をも否定しまうのだ。人間は神を信じる以上に奇跡を信じたがるものだ。

人間は奇跡なしでは生きられない。自分で勝手に奇跡を作り出して、やがて祈祷師や、巫女の妖術まで信じるようになってしまうのだ。

それは暴徒であれ、邪宗教徒であれ、無神論者であれ、皆同じだ。

多くの者が「十字架から降りてみればいい、そしたらお前が神の子だという事実を信じてやろう。」と騒いでもお前は降りなかった。

例のように、人間を奇跡の奴隷とはしたくなかった、自由な信仰こそが大切だと考えていたのだ。

 お前は人間を少し過大評価し過ぎているのではないか。お前は人間を深く愛し過ぎたようだ。

それがためにお前は余りに多くを人間に要求したのだ。本当はそんなに人間を深く愛さなければよかったのだ。

人間の負担が軽くなったからだ。お前があれだけの苦しみを受けたのにも拘わらず、不安と惑乱と不幸、これが今の人間の運命なのだ、

こんな有り様でしかないのだ。お前に感化されたのは幾千幾万、然し、その他の、幾百万幾千万の人間はどうするのか。

それらの人間を責めるわけにはいかないだろう。お前が単に選ばれた者達だけにやって来たとしたら、もしそうだとしたらそれは神秘というだけだ。

そんな事であれば私共の知った事ではない。

 然し、本当に神秘だとしたら、我々も声を大にして叫んでもよい。-----人間の重んずべきは良心の自由なる決定でもなければ愛でもないのだ。

ただ神秘あるのみだ。あらゆる人間はおのれの良心に背いても、この神秘に盲従しなければならないのだ----とね。

我々はその通りにしたのだ。我々はお前の事業を大きく訂正して「奇跡」と「神秘」と「教権」の上に築き上げたのだ。

民衆はこれで自分等を導いてくれる有り難い塔が出来たと安心したのだ。

我々は素直に人間の心の中の重荷を減らしてやった。限り無い苦痛の原因である自由を彼等から取り除けてやったのだ。

意気地のない人間の本性を思いやって、我々の許しを得た上なら、悪行すら大目にみることにしたのは、これこそ人間を愛している証拠だ

とは言えないのだろうか。

 一体お前はなんで今頃我々の邪魔をしにやってきたのか。お前が私の話をすべて理解していようとそれは構わない。

お前の返事も別に聞きたいとも思わない。そんな事はどうでもよい。我々はもう八百年も前からお前を捨てて「悪魔」と手を結んでいるのだ。

お前が奮然として悪魔から受け取る事を拒絶した最後の贈り物『神のものは神のもの。カイザルのものはカイザルへ』----

そうだ、それは地上に於ける権力なのだ。我々はそれを手にしたのだ。

我々は悪魔の手からローマとカイザルの剣を取ってこの地上で唯一の王者だと宣言した。

勿論、それはまだ完成の域には達していない。然し、いずれそうなるのだ。その時が人類が最高に幸せになれる時なのだ。

 ところで、お前はどうして、最後の贈り物を拒絶したのだ。

この悪魔の第三の勧告を採用していたならお前の手でこの世界を至福の世界に出来たのではないのか。

人間を支配する者と、良心を託すべき者と、すべての人間を、世界的に結合する方法を完成させる事が出来た筈なのだ。 

 世界的結合の欲求は人間の最後の望みであった。

お前に出来なかった事を、我々こそが悪魔と手を結びカイザルの剣をもって世界的王国を建設して、そこで始めて世界的平和を定める事が出来るのだ。」

 審問官はしばらくの間じーと囚人の顔を見つめていた。審問官は何か囚人が言い出す事を期待していたのである。然し、それはなかった。

 が、突然、無言のまま、囚人は九十歳の冷たい血の気の無い老人の唇に静かに接吻したのであった。それが囚人のすべてであった。       
大審問官は、戸口に寄っていきなり戸をあけて叫んだ。『さ、出て行け。そしてもう来るな、どんな事があっもな!!。』

 --------囚人は静々と歩み去った。]

  簡単ながらダイジェストはこれにて終わりです。                                            

 大審問官でのイワンの無神論を暴論ながら一言で纏めてみると、次のようになると思うのですが・・・・。

1「人間はパンのみにて生きるにあらず」これはおかしい。面前にたむろする飢えたる大群集の姿をどう見るのか。

2「神の子」であるのなら奇跡を起こす事が出来た筈だ。お前は何故そうしなかったのか。「神を試してはならない」この論法はおかしい。

3「カイザルのものはカイザルへ」そう言ってお前は地上の権力を持つ事を否定した。世界平和の達成は地上の権力を持たずにしては成功しないのだ。

 それを知らないわけはない。


因に、豚のような男、地主フヨードル・カラマーゾフには、ドミートリー、イワン、アリョーシャ(アレクセイ)、スメルジャーコフ。

四人の息子がいます。

 長男のドミートリーは単純明解な男でありながら思慮に欠け態度がおおざっぱ。美女グルーシェンカをめぐり父親と争っていました。   
イワンは父親を徹底して嫌悪している冷徹な次男、その頭脳は抜きんでて鋭く彼の説く「無神論」は上記の論調のように一分の隙もありません。

(なお、この小説は当初このイワンを中心にして「或る無神論者の手記」の題名で書かれたとの事です。)             
三男アリョーシャは信仰心が篤くイエスの再来と思われる程の人物です。                              
スメルジャーコフは父親が下女に生ませたイワンのエピゴーネン(陰の男)でイワンの意識下の願望を実現すべく実の父親を殺害します。 
間もなく、ドミートリーが犯人として捕らえられた事で、真相を知っているイワンが発狂し、スメルジャーコフの自殺で終結します。   
おぞましいこの家庭の悲劇は美しい理想を失ったロシアの実相だとされました。

然し、老修道僧ゾシマとアリョーシャは新生ロシアを予告したものだとか。

その精緻で完璧なストーリーは世界中から注目を浴び驚嘆と共に絶賛され続け現在に至っています。世界最高峰の文学作品です。

 参考引用---ドストフエスキー「カラマーゾフの兄弟」池田健太郎訳、中央公論社

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