2012年3月5日月曜日

疎開児童

 
 写真は東京からの疎開児童第一陣 山形県宮内町へ(昭和19年)

 空襲などの激化で「一般疎開促進要項」に基づき、都会から地方への疎開が始まった。
 写真は、長井線宮内町(現・南陽市)に到着した東京からの学童疎開の第1陣。

 児童達は、民家や寺院、温泉地に振り分けられ、終戦まで不便な生活を送った。

 ------------------- 今頃になると思い出す事。その中には、戦争中のいろんな出来事も まだまだ大量に残っていますね。 

その中にはどんなのがあるか・・・・例えばのハナシ、急に増え出した疎開児童、そんなのもあります。


 戦局が思わしくなくなって来ると同時に 、山形に住む私達でしたから、やがて東京方面からの集団疎開、縁故疎開、それぞれを小学校で大量に迎え入れるようになりました。
     
 疎開に関する悲しくも哀れな記録の類は、数え切れない程 今でも語り継がれ書き続けられて来ているのではないかと思います。
 因にgoogle検索で「疎開」を入れてみるとざっと69万件、それだけの件数で今でも語られていますよ。
    
 然し、まあ私が申し上げたいのは、それだけの件数で語られてあるにせよ、そのすべてが中央から蝦夷地?へと流されて来た流刑囚の様に、悲嘆と悲哀、すべてがその範囲内で語られているような思いがします。
 親を想い、母を恋う嘆きの数々、加えて、空腹、現地での苛め、それによる疎外感、etc・・
 すべてが それらに包含され終始している感じがするのですよ。
 とは申せ、勿論、それはそれで本当の姿だったでしょうから、こちらからアレコレ申し上げる筋合いはありません。

 残念だと思うのは、その中には 疎開児童を受入れた側からの発言は殆ど(全く?)見られない---その不条理があります。書き連ねてあるのは、すべて疎開した側からの発言のみです。
     
 どうしてなのか、田舎の子供達には、彼等に対して、いろいろ面倒をみてやろうとは考えても、それをどうやって相手に伝えてよいのか、発言すべき言葉(方言)が絡んでか、結果的には何も出来なかったような気がするのですよ。

 ともあれ、自分等が持っていた小さいながらも 非常時に於ての自分達としての役目、加えて 他人に対する思いやり、とか・・・とか、それまでは、都会も田舎も区別なく平等に教わって来た筈なのに、それらを理解すべき機会も訓練もすべてゼロで終始して来たためのツケが廻ったように、私共は常に無言で対応するほかなかったのではないかな。

 それをもって寛容の精神の不足・・・・そう申されても何をか況んや・・・・でしょうね。
          
 揚句の果てには、すべてが私共の責任のごとく評価されてしまい、結果的に、疎開せざるを得ない彼等の不幸に同情するでもなく、全く逆に、嫉妬も絡んだであろう‘構えの姿勢’を取らざるを得なかった、つまりコンプレックス------相手に対するそんな 心のズレにもあったような気がしますが、それにしても、やはり、確かに、おかしかったと思いますよ。

 まあ、全く違った別の視角から見渡してみると、オーバーな表現ながら、奈良平安の頃から、そこには蝦夷(えみし)として、虐げられて来た東北の人間達の中央に対する余りにも暗い受け身の姿勢のみが垣間見られた-----こう申し上げたらおかしいのかな・・・・やっぱり誇大表現になってしまうのかな。
別の記録から

 学童疎開について、当時、疎開児童を引き受けた山形の私の小学校で、担任の先生が最初に申された事は、それぞれの違いを意識する前に、同じだ と思える点を大きく取り入れろ、と、これでしたね。
 今に至るも名言であったと思います。違いを言い出したら多分キリが無かったでしょう。勿論、すべてが その通り事が運んだわけではありません。然し、大きな問題は何一つ発生しませんでした。
     
 結局は個別疎開、集団疎開、その両方によって大変な数の疎開児童が押し寄せたので、あれこれ云っているヒマもなかった、と、これが実体であったのかも知れませんが。
     
 ・・・・疎開児童はアタマが良かったか?・・・・それは人によりましたね。
 言葉はどうだったか、先生は、臆せず自分の言葉を使え、この一言で決まりました。
 我々が東京弁を使う前に疎開児童の方がズウズウ弁を使い出したので、腹がよじれる程おかしくて大笑いの連続が続きましたよ。ただ、それが お互いを近付けた大きな要因になったかも知れませんね。

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