「終戦のすぐあと、昭和20年の9月、蔵王温泉(当時はまだ高湯温泉)に遠足があって、その途中始めてアメリカ人を見たのである。半郷町目指して歩いていると、上の山町方面よりモウモウと砂煙りをあげて一台の自動車が走ってきてスレ違ったのであるが、その運転手はまさしくアメリカ兵だったのである。大体、その当時の街道には自動車など走っていないので、そこにかなりのスピードを出してジープが走り去って行ったのだから驚いたのも無理はない。大変なショックであった。
戦後のすぐあとに、どうして遠足などやったか分らないが、全員 自分の分のコメを大事に持って、よたよたになって温泉に到着し、ひと休みのあと龍山(りゅうざん)の頂上まで登り、山形市を眼下に見下ろし、そして下山のあと一泊、翌日夕方に第七小に到着。
考えてみれば、コジキの子供の行列のような様相であった。然し、終戦のすぐあとの頃はまだ良かった筈で、最低生活は、そこらあたりから始まったような気もする。昭和22年から23年頃が最もひどかったような気もするし、24~25年まで続いたような記憶もある・・・・」
●一番左の子供に書いたコメント---まともなリュックサック ゲートル ズック靴
●二番目---入学当時のランドセル 水の入ったビン フクロ
●次はジープ----始めて見たアメリカ人
●その次の男の子---ハケゴ(リュックの代わりに持って行った農業用のワラの入れ物) スペアのワラジ
●一番右の男子----唐草模様の風呂敷 中には自分用のコメ、サツマイモのふかしたもの・サツマイモと云っても現在のとは違って水っぽくってビシャビシャしていた。 ムギメシのオニギリ つけもの ビンに入れた水。ゲートル ワラジ。
ゲートルはゆるんでズリ落ちて下にたごまってくる。
敗戦になると、あれ程熱中していたヒコーキへの興味はひとまず薄れ、それと同時にアメリカのクルマ、特に「ジープ」に対して熱い眼差しを向けるようになりました。下のスケッチは中学に入りたての頃描いたものです。実物や写真を見て描いたのではなく、教室で授業中、退屈しのぎに思い出してスケッチした程度のものです。従って、サイドミラー、ウインカー、ワイパー、それらが正確に描けずギブアップした形で終わっています。
B-29とジープ、これこそ巨大アメリカを代表する科学技術の粋、そう考えたのは私一人だけではありませんでした。日本国民誰もがそう思った筈です。これではアメリカなどに到底勝ち目はない---目の前にジープを見て、すべての日本人はギャフンと打ちのめされたのでした。
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