2012年10月21日日曜日

新聞切り抜き帳−16 学徒動員



1943(昭和18)年10月21日、全国を代表して、東京都四谷区の明治神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が実施された。

 当時の報道によれば、秋の強い雨の中、観客席で見守る多くの人々(引き続き徴兵猶予された理工系学部生、中等学校(現在の高等学校)生徒、女子学生などを含む)の前で、東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県の各大学・専門学校から召集された出陣学徒の隊列行進、宮城(皇居)遙拝、岡部長景文部大臣による開戦詔書の奉読、東條英機内閣総理大臣による訓辞、慶応義塾大学医学部学生の奥井津二による壮行の辞(送辞)、東京帝国大学文学部学生の江橋慎四郎による答辞などが行われ、最後に競技場から宮城(皇居)まで行進して終わったとされる。
 壮行会を終えた学生は徴兵検査を受け、1943年12月に陸軍ないし海軍に入隊して、各地の戦場へと出征していった。
 仕官不足であったため入営後に幹部候補生試験などを受け下士官扱いで最前線に出征した者が多いが、戦況が悪化する中で、しばしば玉砕などによる全滅も起こった激戦地に配属されたり、慢性化した兵站・補給不足から生まれる栄養失調や疫病などで大量の戦死者を出した。
 また、それまで前線で敵と戦った古参兵は、それまで戦争被害がほとんど無かった内地から、学歴だけを理由に自分の上官として着任した学徒兵への反発を隠さなかった、また学生も学の無い上官への不満を隠さなかった。1944(昭和19)年末から1945(昭和20)年8月15日の敗戦にかけて、戦局が悪化してくると、強制あるいは志願によって神風特別攻撃隊に配属され戦死する学徒兵も多数現れた。
 なお、全国で学徒兵として出征した対象者の総数は、日本政府による公式の数字が発表されておらず、大学や専門学校の資料も戦災や戦後の学制改革によって失われた例があるため、未だに不明な点が多い。
 出征者は約10万人という説もあるが推定の域を出ず、死者数に関してはその概数すら示す事が出来ないままである。ただ、当時の文部省の資料によれば、当時の高等教育機関就学率(大学・専門学校・高等学校などの総計)は5%以下であり[1]、さらに理工系学生は引き続き徴兵猶予されたため、日本軍が新たに動員することが出来た学徒兵の実数は決して多くなかった。
 しかし、その多くが富裕層、社会の支配層の男子であった大学生が「生等もとより生還を期せず」(江橋の答辞の一節)という言葉とともに戦場に向かった意味は大きく、日本国民全体に総力戦への覚悟を迫る象徴的出来事となった。.
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 実は、これと同じような訓練・式?は、日常的に、記憶では毎日のように小学校で 私共もやらされていたので、覚えているシルバーも多いと思いますが。
       
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 行進の単位は、当然ながらクラス単位でしたが、それとは別に登校の際を含めて地域ごとに組織が組まれていたので、町内ごとの単位もありましたね。先頭の上級生が旗を持って整然と隊列を組んで登校していました。
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 ともあれ記憶では、学校での、この種の訓練は毎日のようにやらされていたように思います。
 ある時の記憶には、寒さに震えて死にそうな真っ青な顔をしていた疎開っ子を覚えているので、激しくなったのは昭和20年の正月前後あたりから、でしょうか・・・。
 

 明治神宮での学徒出陣式が規範になったのか、実態はそんなところかも知れませんね。
※ 但し、戦災を受けた都会では、当然ながら その状況にはなかったろうし、終戦まで、ともかくも それを続けられたのは 地方の私共のような 無事だった地域に限られていたでしょうが
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あの頃の今日のニュースから。

以上、私の新聞切り抜き帳よりです。

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