2014年4月29日火曜日

戦艦「大和」続き


昭和20年4月6日、第二艦隊司令長官、伊藤整一中将の指揮のもとに、戦艦「大和」は徳山より出撃した。部隊編成は「大和」の他は軽巡一隻、駆逐艦八隻。大日本帝国海軍最後の艦隊であった。目標は沖縄本島の米軍艦隊終結地に強制座礁し、船体を固定させ、巨砲をもって敵艦隊を撃滅せんとするものであった。 但し、制空権の無い戦況のもとでは、目的地到達の可能性は殆どゼロに等しいとされていた。
 結果は予想通り適中し、翌4月7日午後九州南端南西方の海上で「大和」は米軍戦闘機の襲撃により大爆発を起こして沈没するに至った。>
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 この作戦のホントの意図はどこにあったのか、それはなんと大和に死に場所を与えるためだったと言いいます。
 又、乗務員の大半を占める水兵の、その大半は泳ぎを知らぬ少年兵で、彼等の死因は溺死であったとのこと。すべてはホントにムチャクチャなハナシでしたね。
戦艦大和の姿を見ていると、どことなく「蜂の巣」か「蟻塚」に似ているように思える時があります。これの視点は現在もなお対皇室に対する日本国民の意識に連なる とも云われている所以かと思いますが。

 大勢の蟻や蜂達が一匹の女王のために自らを犠牲にして、女王中心の「社会」を守ろうとするスタイル、そんな風に見えるのです。日本人は個人意識に乏しく、又、市民社会が歴史的に未成熟の儘であるためにか個人より集団が優先されるとは、まあ、常識だと思いますが、その結果、死生観もそれに添う形で出来上がっていくとするのも常識と言えるでしょう。

 集団のシンボルは「天皇」「国家」であったり「家」であったり「領主」であったり、果ては「会社」であったり、時代と共に変遷するとしても、いつの世でも、個人の属する社会のそれぞれの頂点がシンボルになっていると言えます。それは多分に儒教のせいだとか、農耕民族のせいだとか、草食動物の宿命だとか、言われているようですが、ともあれ「個」より「群れ」が重要視される原則は古来より崩れてはいません。従って、個人はシンボルに対しては時と場合によっては殉死するのが美徳になる----その論理はかなり強固に維持され現在に至っていると考えてよいと思いますよ。
 -----論旨が多少複雑になりますが、こんな社会構成のもとでは、個の領域と集団の領域の間に「神」は存在出来ない、従って、死生観は、西欧のそれとはかなり違ったものになる、と、そんな結論に達する予定なのですが、どうも論理の組立て不十分でとりあえずこの論旨については今回のところはこれ迄としておきますが・・・----------ご免なさい。
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 大東亜戦争は、航空機によるハワイ奇襲の大成功で幕をあけました。
 この作戦で日本側にもはっきり理解出来た事は、今度の戦争の勝敗は、もはや航空機を除外しては考えられない、と云う認識だったと思いますね。

 戦艦大和は、その戦争認識を持った数カ月後に竣工しました。航空機絶対優位の大東亜戦争開始時に、新しい認識からはずれた時代遅れのその巨体は最初からまさに「時代遅れそのまま」の宿命を持って進水したわけです。建造費は当時の国家予算の3パーセント、現在の金額に換算して約2.5 兆円という莫大なカネを要した巨大プロジェクトでした。
 因に、アメリカがB-29開発に着手したのは昭和14年とありました。
 大和建造の発想は、日露戦争での、帝国艦隊とロシア・バルチック艦隊の激突による大勝利の結果に基づいていた筈です。その時の歴史的な教訓から彼我の艦隊同士が相対して砲火を交えた事態を想定し、作戦はともあれ、最初から敵艦よりも大きい船体に敵よりも大きい大砲を備えた戦艦を用意し、それをもって敵艦を巨弾によって撃破する----そのような単純かつ明確なポリシーが大和建造の発想となったのです。文字通り「大艦巨砲」....大きいことはいいことだ・・・これだけの事だったと思いますよ。

 当時のアメリカの戦艦が搭載していた大砲は42サンチ砲、これは、スエズ運河を通過する際の限界に相当する大きさでした。日本ではそれを見越して不可能と云われた46 サンチ砲 九門を備えた大鑑巨砲の戦艦を考えたのです。この種の大砲でその差4 センチは射程距離にして300メートルの差、つまり敵艦の大砲の最大射程距離より更に300メートル離れた位置から撃つ事が出来る計算だったのです。
 大和の吃水線以下の船腹は、超厚手の多数の鋼鉄製小ブロックによって区分されていました。敵の砲弾によって船腹が破壊されても浸水が他に及ばぬように最小限に食い止めるためです。更に、仮に左舷のブロックに被弾して浸水した場合、右舷の反対側の同じ位置の小ブロックに、自動的に海水が入り込み船体のバランスが崩れないような設計になっていました。大和はその他あらゆる箇所において「不沈」を豪語するだけの徹底的な防御策が講じられていたのです。
 当初、疎かにされていた対空砲火も、何度かの改造によってこれも徹底的に充実され、大和は満身あたかもハリネズミのような物凄いスタイルに変容しています。
 沖縄に向かった大和の出動は味方の援護飛行機ゼロの布陣で進むほかありませんでした。ヒコウキはもはや残されていなかったのです。
 迎え撃った米軍の空軍機は数百機、完全なる航空機対艦船の戦いでしたね。

 米軍はどのような作戦に出たか?。-----それは徹底的に左舷を攻める事でした。数本の魚雷が大和の左船腹に命中し、予定通り?ブロックが破壊され、これによって、これも自動的に右側のブロックに海水を引き込み、しばらくの間は船体は傾くことなくバランスは保たれましたが、極端な左舷攻撃による破壊により、やがて右舷のブロックは海水で満杯になると同時にバランス保持が困難になり、やがて船体は大きく傾斜し海中に引き込まれる寸前、火薬庫に引火し大和は大爆発を起こし海中に没し始め、戦闘は終結しました。

 大東亜戦争は航空機が絶対的な戦力になる、その預言通りの結果があまりにも無惨な姿で実証されたのです。
 「大和は不沈である。もし、その大和が沈むことがあるとすれば、その時は日本も沈む時である・・・・」これを語った日本軍将軍の言葉通り、大和が沈むことで、その数ケ月後、大日本帝国は無条件降伏をしたのでした。
 当時の大和の建造には、勿論、最先端のアイデア、技術が用いられました。46センチ砲もそうなら、船腹のブロック化、もそうでした。その他、ありとあらゆる箇所に優れた近代的建造技術が採用され、その点に於いては敵米英戦艦をはるかに凌駕していました。それは確かな事実でしょう。然し、それらは、その時点での新鋭技術ではあったものの、その先を見越しての配慮や可能性については全く「論外の遅れ」の状態にあったようです。その最たるモノはレーダーでしたね。成る程、時の大和にも最終的にレーダー(電波探知機)は装着されましたが、波長が長過ぎて受像ははっきりせず、レンズを使った測距儀の補助にしかなり得なかった存在でした。短波を使ってクリアーな像を結んでいた敵のレーダーには及ぶべくもなかったのです。

 この時の敵の砲弾や魚雷にはどうだったか詳しい事実は分りませんが、銃砲弾の先端に、初歩的とは云え小さな赤外線レーダーを備えて命中度を飛躍的にアップさせた技術も用いられたと聞きます。その他、敵の航空母艦には、これも初期的なコンピューターが搭載されていたとか、ロケット砲はどうだったか、人造ゴム、ビニール等の軍事用素材の利用は実現されていたか、そして最終的に登場した原子爆弾(勿論、これは大和の範疇外ですが。)となると、彼我の軍事技術水準にはあまりにも大きい落差があったと認めるほかありません。その目で眺めてみると、所詮、大和は単なる鉄の塊(かたまり)に過ぎなかった、と酷評されてもやむを得ませんね。敵の進歩の前に沈むべくして沈んだこれはやはり世界の「三大馬鹿」(ピラミッド・万里の長城・戦艦「大和」)の一つだったのかも知れません。
 大和は、日露戦争の亡霊から生まれた明治時代の遺物に等しい産物でした。結局 何の戦果も挙げず、そして哀れにも沈められるべくして沈められて終わりました。そこには儚(はかない)滅びの美学らしきモノはありましたが、三千余人を失わせた惨い(むごい)現実もあったのです。
 いずれにしても「ゼロ戦」と「大和」、これが大日本帝国のシンボリックな兵器だったとすれば、アメリカのそれは「B-29」と「原爆」、これでしたでしょう。然し、お分かりのように、どう考えても それぞれのポテンシャルが違っていた感じがしますね。

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