2013年2月28日木曜日

は〜るよ 来い ----


♬は〜るよ 来い、は〜やく来い〜♪-------。

私が創った「春を呼ぶ花」です。
プロもアッと驚く〜最高傑作!が出来上がりました!〜。


創った材料は、デジカメ用に買った充電池の小さな化粧箱を利用したものでした。

窓からの眺め




暗い夜道を クルマが走り去って行った〜それだけの3コマです。
臨場感が出るのを期待したわけですが、単に、それにて終了!〜でしたナ〜。

 ----------とにかく今日は寒い日でした。
まあ〜 この調子で、明日もまた同じように寒い一日で終わるのかねエ〜。

♬ 〜春よ来い〜早く来い〜♫〜-----------明日も明後日も歌わなければなりませんナア〜〜。

散歩道から




“お犬サマ” が、このあたり一帯に、さぞや大勢おられるのでしょうなア〜。

繪草紙−比叡山 14


上の写真は、どこからかの切り抜き写真のようですね(本人の私も忘れ去っています〜)。

---------美しい写真。朱色の建物には紅葉の頃が最も美しい。
この写真は、かなり古い頃の写真のようである。現在は、手前に何本かの樹木があって、このような開けた視界は得られなくなっている-------------。

下の写真には

----------素人写真では、構図を決める事が出来ても、色調を選ぶ事は出来ない。朱色は朱色、緑は緑、と、そのまま出て来る。
 然し実際に眺めている時は朱色に強く反応しているか、逆に殺しているか、その人によって違ってくる。

 以上が、この頁での、当時の私のコメントでした。

繪草紙−比叡山 13


左上の「にない堂」の赤線の箇所が以下。
----そのねらいは、朱色をなるべく殺して、周囲の色調に 溶け込まそうとする意図にある。

右頁の黄色の箇所。
→ にない堂の近くにある伝教大師をまつる浄土院御廟(文面略)。
同じ赤い箇所
→ この渡り廊下のデザインは不思議な雰囲気を醸し出している。

真ん中の左 紫色の箇所。
「それにしても、これらの写真 手前の樹がどうしても邪魔で、形になっていない。」
(これの左頁の写真は まだ これから載せますので〜、)

右下赤いコメント。
「天台宗の系譜から出た高僧達の伝記が描かれている。日蓮、栄西、法然----その他。」

左下でのコメント。
「どこから狙っても全体をきれいに写す事が出来ず、こんな半端な部分写真になってしまった。

ベランダで 〜




昼飯後、いつものようにベランダに出たのはいいが、何やら 薄ら寒い顔つきでしたね。


ダメだこりゃ〜と思って、スタコラと下りて来て、炬燵の中に入り込んで 、やれやれのようでして〜。

2月の日数

今日は2月28日。
2月が何故28日で終わっているのか、いろいろと諸説があるような記憶があるのですが、ホント、何故なのでしょう?〜。

本来であれば31日ある月の分から2日程 こちらに入れれば済むと思うのですがネ。
ただ、そうするとなると理屈も何もない擁護論が物凄い勢い!〜で襲いかかって来るのでしょうなア〜!--------。

散歩道から


空の彼方に描かれた飛行機雲の一筋。
地上のこの地では、オシッコを垂れる「まる」。
両者には全く無関係な行為。
-------- それであれ、これは神サマの思し召しかも〜------ なんちゃってヨ!ー。


 電線と飛行機雲、これまた、その両者は全く無関係でありながら、共々に、虚空に描かれた線(ライン)------。
これまた、神の思し召しかも〜----------とか、云っちゃってヨ-------!〜。

 
曰く、生者必滅の理(ことわり)をあらわす。
確かに --------  消え失せつつある飛行機雲に人生の儚さを見る〜〜。
これぞ、ことの真理なり。
--------- へえ〜タマゲタもんだ〜。


あとの文言が続かず、ここで己れの脳味噌の限界を知る、これこそ凡人の宿命なり。(涙!〜。)

2013年2月27日水曜日

戦争には反対だったのだ〜


「俺はホントは戦争には反対だったのだ」
戦後よく聞かれた言葉でしたね。
然しなア〜 こちらは子供ながらも、イヤな言葉でしたね。

因に、その事を どこかに載せた記憶が確かにあったので、検索してみたら、その私がトップで出て来ました。

詳しくは検索から お読みになってみて下さい。

散歩道から


影が長くなり始めた頃の散歩。
いつもの 通り道 ------ での影の長さ〜です。


これもいつもの通りで、人っ子一人 見られませんでしたね。


--------- これまた、人のいない ここでの写真 これ迄 何枚写したでしょうか?〜。

繪草紙−比叡山 12


 説明文は読めるか読めないか、瀬戸際のようですね。下図の印刷分は完全にダメのようです〜。
 故事来歴の説明は それとして、ここでの専ら色彩の妙〜、それを書き込みしているようで〜。
 

いずれにせよ、このような枯淡の味となると、これは日本古来からの特質で、それは、やたらとペンキを塗り捲る欧米の感覚とは完全に違っていますね。

二階からの眺め


とにかく寒い日で〜。
朝から炬燵に入りっ放しで、オマケに「まる」も右同じ------。
まあ〜午後は、一度はオモテに出て、出すモノを出して来ませんとね。

重ねて申し上げて--------とにかく寒い日でございます〜〜。

石原 莞爾 補足

最初のが出て来なかったので、改めて創り直してアップしたところ、その最初のがゾロリと続けて出て来たのですよ!〜。
 腹が立ちましたなあ〜。
--------- ただ、どうにもなりませんでしたので〜〜。

石原 莞爾



石原莞爾は、私の郷土 山形県出身の有名人なのですが、確か 226事件にも関連していた筈と思い検索してみたのが下記です。
但し、単なる紹介記事なので、226云々は出て来ませんでしたが〜。
記事にもある通り、異端児との渾名はさておいて、確かに我が郷土に於いても、なにやら         その方からの有名人であった記憶があります。


石原 莞爾(いしわら かんじ[1]明治22年(1889年1月18日 (戸籍の上では17日)- 昭和24年(1949年8月15日)は、昭和陸軍軍人、最終階級は陸軍中将栄典正五位勲三等功三級満洲国より勲一位柱国章(日本の勲一等瑞宝章に相当)叙位叙勲。「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。「帝国陸軍の異端児」の渾名が付くほど組織内では変わり者だった。
関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件を起し満州事変を成功させた首謀者であるが、のちに東條英機との対立から予備役に追いやられ、病気のため戦犯指定を免れた。

石原 莞爾


石原莞爾は、私の郷土 山形県出身の有名人なのですが、確か 226事件にも関連していた筈と思い検索してみたのが下記です。
但し、単なる紹介記事なので、226云々は出て来ませんでしたが〜。
記事にもある通り、異端児との渾名はさておいて、確かに我が郷土に於いても、なにやら         その方からの有名人であった記憶があります。


石原 莞爾(いしわら かんじ[1]明治22年(1889年1月18日 (戸籍の上では17日)- 昭和24年(1949年8月15日)は、昭和陸軍軍人、最終階級は陸軍中将栄典正五位勲三等功三級満洲国より勲一位柱国章(日本の勲一等瑞宝章に相当)叙位叙勲。「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。「帝国陸軍の異端児」の渾名が付くほど組織内では変わり者だった。
関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件を起し満州事変を成功させた首謀者であるが、のちに東條英機との対立から予備役に追いやられ、病気のため戦犯指定を免れた。


 

窓からの眺め


眺めてみたところ、まあ〜猛烈に寒い朝でしょうね。
昨夜来の雨は上がったようですが、その分 気温低下だけが取り残されたようで〜。
景色は 凍り付いた如く、動いているものは何一つ見当たりません。

2013年2月26日火曜日

二・二六事件

今日は昭和11年(1926年)2月26日に起きた 226事件の日でしたね。

以下が検索からお借りした事件の概要です。

二・二六事件(ににろくじけん)は、1936年昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、日本陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名のを率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件である。事件後しばらくは「不祥事件」「帝都不祥事件」とも呼ばれていた。
一般に、「ニニロクジケン」でなく「ニーニーロクジケン」と伸ばして発音されることが多い。



繪草紙−比叡山 11


絵の説明文字、なんとか読める範囲と思いましたが?〜。
それにしても右での、肉筆の凄さ!〜それだけで圧倒されましたよ。
目の前で、サ〜---- と ひと筆の如く あっと云う間に書き上げるわけですからねえ〜。

繪草紙−比叡山 10


写真説明 左
堂内が撮影OKと云うケースはめずらしいかと思う。
然し、OKだからと云って、やたらとフラッシュは使用出来ないもんだ。御本尊の表情は眼視では、かなり暗くてわからない。プリントにして始めて その お姿が はっきりしたが、今度は小さ過ぎて又々はっきりしない。

写真説明 右
信仰心の厚い一家だと思われる。おじいさんを先頭に何をお祈りしていたのか、ずいぶん長い間 手を合わせていた。立って歩いている者は単なる見物人で、信仰心深からぬ者。
うろうろしているだけのもの。

繪草紙−比叡山 9

下段の長いアタマの御仁。
念のため再度探してみたら、これは建長寺ではなく「寿福寺」との事でしたので〜。
以上、訂正させて頂きます。

繪草紙−比叡山 8

栄西禅師のアタマ、とあります。
このようなアタマとなると、雨が降れば人より先に濡れるに違いない〜とか ご同情申し上げた気分になりましたね(?)。

繪草紙−比叡山 7


上の真ん中、その右に青色で私が入れたコメントが 以下。
たった一人の20歳の若者の宗教心が、1200年後 比叡山延暦寺として巨大化しながら現在に至っとは、当の御本人も想像すら出来なかった事ではないかと思う。
恐るべきパワーである。

※ 20歳の若者とは 最澄 のこと。

繪草紙−比叡山 6

迫力!〜とありますね。
ホントこれに限りませんが、写真と現物には常に大きな差があると認識すべきでしょう。

繪草紙−比叡山 5


拡大して見ると、それなりに大きな画像にはなるのですが、文字はダメですね。
まあ〜取り敢えず雰囲気だけでも察して下さいませ。

繪草紙−比叡山 4


絵双紙を捲ると、このように いろいろと講釈を並べているのですが、これでは読めないし、そうかと云って改めて 書き込みするとなると大変な事なので、目下思案中と云ったところですので〜。

繪草紙−比叡山 3



2013年2月25日月曜日

繪 草紙−2

下記の絵双紙は、すべて 二つ折りにして 片面 横27cm X 縦37cm の画用紙のようです〜。

そのサイズの画用紙は ありふれた画用紙のようですが、正式な名称でA−3サイズと称するのかどうか、そのへんは 分かりませんので何卒御容赦下さいませ。

繪 草紙


 私が描いた 絵草紙の中の一冊 で、A−3サイズの画用紙を折り重ねて一冊にしてあります。

一冊ごとに、それなりに自分で製本し、平成5年からスタートし、平成8年、37冊に達した時点でストップしましたね。


最後の頁には、新しい巻が加わった時点で、その都度、全巻に新しい巻の表題を貼付し、目次としてあります。
本来であれば  50冊以上、100冊迄〜と、考えていたのですが そこまでも到達しませんでしたね。
 これ迄にアップした「50年前の新聞切り抜き帳」を初めとして これからアップ予定の巻も、すべて この中に含まれている、と、そう云った  アンバイ!〜ですので--------。

散歩道から


夕暮れ時とは申せ、いかにも寂し気な「まる」の足取りでして〜。


これもまた 寂し気で、人っ子一人見られませんでなア〜


いつもながらの、これぞ ユークリッドの幾何学とか称して〜。

ひな飾り



昔の?ひな飾りは どの家庭であれ、8段程度の雛壇に、それぞれ飾るべく決められた順序にセットするのが通常のスタイルだったと思うのですが(昔の我が家もそうだったので〜)現在は、日頃からお気に入りの人形やら小物やらを適当に並べて飾る----------そのようですね。
勿論、人形類そのものや飾り方にも、曰く因縁は全くナシ、単に並べるだけ〜。
従って、あくまでも幼児対象である事も察しられますね。
結局は、面倒臭い だけから 単にそうしているのかも〜。

-----------勿論、以前のように、キチンとした 雛飾りを行なう家庭もあるとは察しられるにせよ、それらは少数派とあれば、まあ〜これも時代なんですかなあ〜。

窓からの景色



本日の 窓からの景色は、いつもと変わりはありませんが、天気晴朗なれど風強し〜とか、とにかく晴朗はそれとして、風が強く気温が低く寒い日デある事には変わりなし、ですね。

目下、いつもの「まる」との散歩も終えて、やれやれとPC の前で 一服しているところ〜。

2013年2月24日日曜日

散歩道から


身を切るばかりの北風が吹いている今日の散歩でした〜。


 いつもの通り、ここでパチリ一枚、私の顔面は寒さ防止で ぐるぐる巻き〜。

あちらの明るい方が、明るい分だけ暖かそうに見えてしまうものでした〜。


建物の陽の当たる箇所は、何となく暖かく感じられるものですが、単に そう見えるだけのようで〜。

窓からの眺め


窓からの眺め、いつもの通りですが、凄い風が吹いているようですね。
今頃の風、となると肌を突き射す!〜そんな北風ですよ〜。

「まる」の排泄もあるので、散歩に出たいのですが、とても これでは出られる状況ではありません。
 もう暫く待つ外ないようで----------。