2010年9月30日木曜日

運転経歴証明書

  
クルマの運転はとっくに辞めた私ですが、当時、免許証に代わる証明書として交付されたのが載せたのと同じ「運転経歴証明書」でした。

理由があって運転免許証を自発的に取消しをされた方の申請により、運転経歴証明書が交付される制度です。

この運転経歴証明書は、運転免許証と同じ大きさのカードサイズで、住所、氏名、生年月日などが記載されています

-----------とあります。


 幸い、それを提示して云々のトラブルは これ迄にもナシでしたね。
「免許取り消しから5年間有効」とありますが、常に参考として提出するわけですから、法的な場合はさておいて、一般的な証明としては有効期限は有って無いようなものではありませんか?。

 ---------------と云った次第で私の身分証明書」として現在も財布に入れっ放しにしてあります。

散歩道から

 

 
 目をやる水たまりに例え僅かではあっても、空が写るところに風情があるのですよ。
 その空が小さければ小さい程 逆に空の大きさが推し量られるような気がしてしまうのですが、諸兄姉はいかがでしょうか。

名画より

 
 

 アンジェラスの鐘が鳴り響くと バルビゾンの農夫婦は祈りを捧げた。

 「晩鐘」は、19世紀フランスの画家ミレーによる1855-1857年頃の作品。

    バルビゾンの馬鈴薯畑で農作業をする夫婦が、教会から聞こえる夕刻のアンジェラスの鐘に合わせて祈りを捧げている。アンジェラスとは、ラテン語で「エンジェル、天使」の意。アメリカの地名「 ロス・アンジェルス」 も同じ語源。具体的には、神のことばを伝える天使ガブリエルを指す。

 ( 以上、検索からです。)

 ----------☆☆☆☆☆☆------------

    この絵での、作物に対する祈りは祈りとして、確かに 納得は出来たのでしたが、別途、食肉用として
   西洋人が牛や豚や羊を殺す時はどうだったのか、

   祈りを捧げたかどうか、これでしたね。

   それとなると、正確には見た事も聞いた事はありませんでしたが、誰が云うともなしに、とにかく牛や豚の顔の前から大鉈を振るって眉間に一撃を食わせて、それなりの残酷な方法を用いていた、と聞き及んでいましたね。それ等家畜の 断末魔の悲鳴と大量の血を浴びながら殺すのが一般的なやり方だと洩れ聞いていましたよ。

 -------------となると、勿論そこには祈りの姿勢など微塵も無かったのではありませんか?、どうでしょう。

  逆に申せば、日本人は、明治以前は動物の肉は食わなかった筈、とすれば日本人の方が遥かに人間らしい人間でしたでしょうよ。 いかがでしょうか?。

  この例に限らず、子供の頃思った疑問などについて、なんか、丸め込まれて大きくなったような気がするのですよ。

無題

 
  昨日写した写真。

 一人で、原っぱで遊んでいた子です。
 表題は何としようか、と、 いろいろ考えましたが、考え過ぎて分からなくなってしまいましたね。

窓からの景色

 
 いつもの、単なる窓からの眺めです。
 ただ、馴染みの眺めであっても、その日によって随分と感じが違うもんだと思う時があります。

 この写真は昨日の午後撮ったもの。雨上がりでの雰囲気は、全体が濡れているせいもあってか、何と云うのかなあ〜〜、映画のセット〜、そんな感じがしましたよ。

 もう少し曖昧な表現でもOKなら、小さなオモチャの街、そうも思えましたね。

 普段なら、全くそうは思えない景色なのですが、濡れている事やバックの暗さなどで、色彩が普段とは違った形で誇張されているように見えてしまうからでしょう。

2010年9月29日水曜日

光陰矢の如し-2

 
 前に載せた写真と同じですが、先ほどのは、いかにも暗くて青春時代の若さも見られない暗黒の時代?のようにも見られたので、明るくして再アップさせて頂きましたので。

「雨に濡れる木の葉」

 
 
 芸術を目指してシャッターを切った作品〜〜〜なんちゃって------。




散歩道から

 
 屋敷の向こうが雑木林、自然と共棲のような感じを受けますね。

 
 こちらは「まる」と一緒だったわけですから、両者の表情は同じようだったかも知れません。

 
 イッパシの芸術作品のつもり?-------- のモノ。

光陰矢の如し

 
 古ぼけた写真が出て来ました。
 高校卒と同時に就職した とある工場での写真。上の右、若いのが私。
 東京に出て来る前に暫く働いていましたね。

 光陰矢の如し -------- オレも若かったなあ〜〜なんて誰でもがそう思う古い写真をお持ちなのではありませんか?。

 勿論、今でも 誰にも劣らぬ若さを持って頑張っているぞオ!〜〜そう肝に命じているのも私と同じでしょう------。

窓からの景色

 

  今朝からの雨も上がり、気温も そこそこなので、ここ私の二階の窓は、全部 開放してあるのですが、外の各家を眺める限り、開けてある窓は皆無ですね。

 今のところは 暑くもなし 寒くもないので、窓開放は全く問題がないとは思うのですが、各家共々エアコン依存 のようです。------------まあ〜 これが ‘ 時代 ’ なのでしょう。

「すめらみこと」

 
 君死にたまふことなかれ、
 すめらみことは、戰ひに
 おほみづからは出でまさね、
 かたみに人の血を流し、
 獸の道に死ねよとは、
 死ぬるを人のほまれとは、
 大みこゝろの深ければ
 もとよりいかで思されむ。
   与謝野晶子

 天皇という称号が生じる以前、倭国(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を、国内では大王(治天下大王)あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称された[2]。古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称した[3]。なお、「すめらみこと」の名称は古代シュメールからのものだという説もある[4]
-----------------------------------------------

  この「すめらみこと」の、特に「すめら」の語感に子供の頃から違和感を持っていましたよ。

 解説を見て、古代シュメールからだ、とあれば、さもありなんと納得はしましたが。

 ただ、逆に、どうして、そんなところから持って来た言葉なのか、それが変ですよねえ〜。

 とにかく変な言葉だと感じていたのですが、諸兄姉においては いかがっだったでしょうか?。

散歩道から

 

 
 夜来の雨も止んで、気持ちのいい朝の散歩でした。

2010年9月28日火曜日

秋雨-2

 
 タクシーは大繁盛の模様----。

 
 バス停で-------まあ〜傘を持って来て正解!だったと安心されてる お方でしょうか。

 以上、西武池袋線 東久留米駅前にて。

秋雨

 
 秋雨に煙る 西武池袋線 東久留米駅正面

 
  駅近くの路地から。

 今日は歯医者に行って来ました。
 歯痛は誰にでもある苦痛の一つでしょう。
 場所は西武池袋線東久留米駅の近く。
 帰りに秋雨に煙る駅近くで何枚かシャッターを切って来ました。

2010年9月27日月曜日

お大尽サマ

 
 
 散歩のあとは、これこの通り、炬燵の中で ぐっすりとイビキをかいて寝ています。
 

雨の日 の 散歩道から

 
 今日は朝から じとじとの雨降り。

 ここのところ雨が降ると かなり寒い日になりますね。
 とは申せ、散歩はいつもの通りです。

雨の日

 
  今日は雨、
 「まる」 の姿はありません。
  それにしても、昨日と違って寒い日です。

2010年9月26日日曜日

日向ボッコ


二階のベランダでの光景ですが、いくら日向ボッコとは云え、夏の盛りが完全に去った今日この頃ではなし、暑すぎないように、身体半分だけの日向ボッコ-------これがニクイですねえ〜。

散歩道から

 
  ピンポンパンポーン♪
 「迷い人の お知らせです。
  白い服、茶色のズボンをはいた お年寄りが
  迷子になっております。
  ご家族・お知り合いの方は 至急、4階迷子センターまで
  おこしください。」
    ピンポンパンポーン♪
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 時折聞こえる市からの情報ですが、とにかく昼夜を問わず、しっかりと役目を果たしているようです。
 我が家からは、かなりの距離ですが、それでも良く聞こえると云う事は、真下界隈では、かなりの音響ではないのかとも察しられますが---------------- 。

「くにうみ」

   
 国産み(くにうみ)とは日本の国土創世譚を伝える神話である。
 イザナギイザナミが天の橋にたち矛で混沌をかき混ぜ島をつくる。また、『古事記』などではそののち2神で島を産んだというものである。この島産みは、中国南部、沖縄から東南アジアに広く分布する「洪水説話」に似た点が多いといわれる[1]
 なお、国生みの話の後には神生み(かみうみ)が続く。
 古事記』によれば、大八島は次のようにして生まれた。
伊邪那岐(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)という二柱の神は、別天津神(ことあまつがみ)たちに漂っていた大地を完成させることを命じられる。別天津神たちは天沼矛(あめのぬぼこ)を二神に与えた。伊邪那岐・伊邪那美は天浮橋(あめのうきはし)に立って、天沼矛で渾沌とした大地をかき混ぜる。このとき、矛から滴り落ちたものが積もって島となった。この島を淤能碁呂島(おのごろじま)という[2]
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 以上、これらの神話は、私共の戦時中の小学校時代、日本国史、その冒頭で、そのまま日本の歴史の幕開け、
 その真実として堂々と教わりましたね。

 そう教わった私どもの受け取り方はどうだったか。

 勿論それは正論として受け止めていた---------つまり達観していましたよ。
 子供が達観する程の教育だったわけですから何をか云わんや〜〜でしたね。

浄土ヶ浜

 
 陸中海岸国立公園の中心をなす浄土ヶ浜は、宮古の代表的な景勝地。
 鋭くとがった白い石英粗面岩が林立し、一つ一つ違った表情を見せて海岸を彩ります。松の緑と岩肌の白、海の群青とのコントラストはまさに一見の価値あり。
 浄土ヶ浜の地名は、天和年間(1681~1684)に宮古山常安寺七世の霊鏡竜湖(1727年没)が、「さながら極楽浄土のごとし」と感嘆したことから名付けられたと言われています。

 いつの頃だったか忘れましたが、どこかに向かう途中、行ってみるかな、と考えて軽い気持ちで寄った場所でした。
 日本で最もステキな景観、と、今でもそう思っていますが。
 とにかく、人工的なモノは何もない完全な自然の姿が見られました。

散歩道から

 
 放置された自転車で、先の方は雑草に覆われてしまっていますね。
 その昔には考えられない姿です。

 戦後の、あの当時は、自転車は現在のクルマ以上のステータスとして燦然と輝いて?いたものでした。
 とにかく、新しい自転車を買うとなれば大変な覚悟が必要で、貧乏な我が家では中古品を入れるので精一杯-------それだけに大事に大事に乗っていたのを覚えています。

 それと、その当時は自転車にも税金がかかっていたので、その証明になる鑑札が本体に貼付されてあるかどうか、それの取り締まりも熾烈なモノがありましたね。
 貼付されていなければ即 没収、当然ながらそれも恐怖だった筈ですよ。町には、そんな無鑑札のが結構見られましたからねえ。

 それがまあ〜〜現在は、そこらに勝手に放置され棄てられているのですから、これでは いずれは お天道様のバチが当たるのではありませんか?。
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 そう云えば、その昔「自転車泥棒」なるイタリア レアリズム映画、そんな名画が評判になったものでした。
 監督は一世を風靡した デシーカ -----と、その彼でした。
  感動の一編でしたね。

 以下、wikipediaより。

 自転車泥棒』(原題 LADRI DI BICICLETTE,英題:The Bicycle Thief)は、1948年に公開されたイタリア映画第二次世界大戦後のイタリアを舞台に、戦後の貧困とその中で生きる親子を描いた作品。

ネオレアリズモ(新写実主義)の名作と評される。モノクロ作品。1948年、アカデミー外国語映画賞受賞。

 ※ 続きはwikipediaで 御覧下さい。

2010年9月25日土曜日

散歩道から

 

 

 
 今日は、空が真っ青、一片の雲も見られず、加えて暖かく「まる」との散歩にも絶好の日和でした。

 ------------ それにしても見上げる空を よぎる電線も結構複雑なもんですなあ〜〜。

芋煮会


 
 多分、それは昭和18年の秋だったと思うのですが、隣組み揃って山形市外れの「馬見ケ崎川」に 芋煮会に行った事がありました。

 河原は大変な賑わいで、我が方も、然るべき所にゴザを敷いて、すぐ宴会が始まったわけでしたが、なにせ男衆が少なくて、まわりの賑わいに押されっ放しでしたよ。

 そのうち、
キッちゃんの父ちゃん が、俄然 張り切り 出して 一人で雰囲気を盛り上げ、一方的な賑わいで無事終わったのでした。

 キッちゃんの父ちゃんも 好きなんだなあ~~と、みんなで満足して帰路についたわけですが、考えてみると、これは どうやらキッちゃんの父ちゃんの人知れぬ努力による涙ぐましい芝居ではなかったのか----と思うようになりましたね。
 無論、それは この私が大人になってからの事でしたが・・・。
 
 戦争とは云っても、ここ東北では、まだまだ平和な頃でした。
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 以下wikipediaより
 芋煮会(いもにかい)とは、日本の主に東北地方で行われる季節行事で、河川敷などの野外にグループで集まり、サトイモを使った鍋料理などを作って食べる行事である。
呼称には地域差があるが、ここでは総称として「芋煮」「芋煮会」という呼称を用いる。
 この件については以前にも載せた記憶があるのですが、重複の節は御容赦の程------------。

オフィーリア

 
 ミレー自身及びヴィクトリア朝の最高傑作と名高いこの作品は、1862年のロイヤル・アカデミー展に出品したもので、言うまでもなくシェイクスピアの『ハムレット』のヒロインを題材にしたものである。川の流れに仰向けに浮かぶ少女のモデルは、後にロセッティの妻となるエリザベス・シダルである。
 オフィーリアは多くの画家がモチーフにしているが、中でもミレーのこの絵は、物語中の描写を忠実に表現している事で知られる。
 日本でも非常に有名な絵画の一つであり、夏目漱石の小説『草枕』にこの絵に言及した箇所があることはよく知られる。 また、日本画家の山本丘人がこの絵画の影響を受けた『水の上のオフェリア』(原題:『美しき屍』)を描いている。
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 昔の我が家の近くには山形城趾があり、その周囲は濠で囲まれてありました。その濠は、それなりに大きい濠で、それもあってか、戦中から戦後にかけて、延べ何人かの入水自殺者の屍体を見ました。
 その様子からイメージとして強く残っているのは、すべての死者に共通している白鑞の如き “ 目を瞑った死に顔 ” でしたね。
 目を開いている屍体は一件もなかった気がするのですが------------。
 私の方の 見間違いだったのかなあ〜〜。

    高層ビル

     
     
     これは新宿のウラの方(西新宿?)の高層ビル街。
     いつの間に建ったのか、まあ〜それ程の興味も無かったせいもあって、改めて驚きました。
     それにしても、これらの高層ビルは万が一の場合は連鎖的に倒れるを防ぐためか、お互い前後に大きく空間を確保してあるものなのですね。
     横に倒れる事は物理的に絶対無いわけですから当然かと思うのですが、然し、万が一の時は、いきなり地面に叩き付けられて崩壊するよりは、前後にもビルが建っていて、それ等のビルに凭れながら崩れる方が損害は少ないような気がしますがね。
     まあ〜〜その時の、倒壊後の損得勘定が面倒になるのを避ける意味もあるのかも知れませんが、それならば、その事前に、前もって損得勘定を算定しておく---------と、 そうすればとも思いますが、もし、やるにしても、これが相当に面倒な計算と憶測の上に成り立つものなのでしょうなあ〜。
     相互の損害賠償の比率、それなど、どのように計算するか、考えただけで頭が痛くなりますね。
     それよりは、万が一の時は、隣近所に迷惑をかけないように、お互い、己れのビルだけが倒れるような配慮?が為されたのでしょう。
     その時は-----------皆さん、お先に失礼!、と挨拶する間もないかも知れませんな。
     
     以前は、西口を出ると間もなく浄水場があったので、まあ〜〜見渡す限り空間が広がっているだけでしたね。
     下の写真

     
     ※ 以上、写真は検索から お借りしました。

    2010年9月24日金曜日

    「星と遊ぶ」から

     
       「私は かぐや姫よ」

    同年の有名人

     
     以下、私と同年の有名人

     森村誠一
     三遊亭円楽
     初代コロムビア・ローズ
     岡田茉莉子
     藤本義一
     渡辺貞夫
     ミッキー安川
     オノ・ヨーコ
      高木ブー
     浅利慶太
     山川静夫
     永六輔
     服部公一
     金田正一
     黒柳徹子
     宍戸錠
     伊丹十三
     ------ etc

     以上1933年生まれ

    「十進法時計を考えてみました-----」

      
     以下は、昔々ある科学雑誌に投稿した私の十進法についての寄稿文からです。勿論 掲載されたとは云え御覧の通り実現は致しておりませんね。

     十進法の時計を考えてみました。
     現在、一日で86.400秒の時計を10万に分割して十進法になる時計を考えてみます。この時計を基準にして、まず地球の経度を日付変更線をゼロにして、東まわりに10万に分割します。
     さらに緯度の方は、北極をゼロにして、南極まで10万分割。さらにこの考えを延長して、天球の赤経を春分点をゼロにして同じく10万分割。最後に北極をゼロにして南極まで10万にする赤緯を考えてみることにします。

     こうすればどうなるか?。なにせ、すべてを十進法にするわけですから、時間も角度も電卓等での計算が自由自在になります。
     大体、A星とB星がどの程度は慣れているか、時角でスラスラ計算できる人などめったにいないわけですから、十進法にすれば、天球座標の理解も小学生にも即座にOKとなります。

     以前、1950年を基準に世界の時計を十進法に改めようとする運動がありました。この運動は実りませんでしたが、2000年近くなると、またこの運動が出て来る筈です。
    今のうちに少しこの考えに同調してみませんか?。

     --------------(以下 略)

    戦艦大和の絵

     
     この戦艦大和の絵は、その方面の大御所 小松崎茂氏の作品を模写したものです。
     画伯 小松崎茂氏は、この方面の大家--------憧れの的でした。

     ただ、欲を申せば、模写するの場合に つくづく感じていたのは、とにかく描き難い、これでしたね。
     その理由は、それは、氏の絵には、艦船にしろ航空機にしろ、常に左から右に向けて走る画面が多かったからですよ。
     船首の砕け散る波頭など 御覧下さいな。絵筆を右から左へ走らせる形状となると、私共にとっては、とにかく描き難い不使いでした。

     どうしてそうだったのか?、----------- それは氏が左利きによる、との理由がありましたね。

     
     上の絵をここのPCで左右を逆転させてみたのですが、この走りであればナンボ描きやすかったか、今でも そう思っている次第。

     残念ながら、当時は、このように画像を逆像にして模写する芸当?などは絶対にムリな時代でしたしねえ〜〜。

    地球温暖化


     地球温暖化の原因について検索すると様々の論評が出て来て、そのいずれもが正しいとは思うものの、やはりここは、人間が過去の蓄積炭素を使用し始めために起きた現象と見たいですね。
     つまり過去の長期にわたる地球変動につれて生じた蓄積炭素の再利用による-------これでしょうなあ〜〜。
     蓄積炭素となると、その筆頭は、石油、石炭、ですよ。長期にわたり歴史的に閉じ込められて来た 石油、石炭、これの使用が為されなかったなら、現在の温暖化は発生する筈がありません。

     以下、前に載せた文面が下記です。

     「石炭紀(せきたんき、Carboniferous period)は、地質時代の区分のひとつ。古生代の後半で、デボン紀の後、ペルム紀の前の時代を指し、これはおおよそ現在より3億6700万年前から2億8900万年前までの時期にあたる。この期間はデボン紀末の大量絶滅からペルム紀直前の数百万年に及ぶ氷河期で区切られている。

     名前の由来はこの時代の地層から多く石炭を産することによる。この地層から石炭を産するのは当時非常に大きな森林が形成されていたことの傍証となる。北米では石炭紀の前半をミシシッピ紀(Mississippian)、後半をペンシルベニア紀 (Pennsylvanian) と呼ぶ研究者もいる。これらはおおよそ3億2300万年前よりも前か後かで分けられる。」

     石油や石炭を使用する事とは、放出される熱によって、改めて この地球を熱帯時代の古代に戻す事でもあり、それは そのまま何百万年かの昔に還る事に連なるのではありませんか?。

     地球は、このままでは温暖化に留まらず、かっての高温多湿の古代として蘇る筈ですよ。勿論 人類の生存は不可、完全滅亡に陥るだけでしょう。
     石油や石炭の使用は人類にとって自殺行為なのです。

     その結果として、遠い未来、その頃の石油 石炭 の内部には ぎっしりと、現在の我々人類の残骸等 の明らかな痕跡が化石として残って出て来ると考えますよ。
     その中には、場合によっては、もしかしたら私も貴方も貴女も含まれるかも知れませんね。

    浪曲


     

     浪花節「乃木将軍と渡し守」〜〜懐かしいレコードですなあ〜〜。

      v〜〜 夏の日暮れエの高瀬がわア --------

     スタートはここから始まりましたね。

     これの中身は、ちゃんと今でも覚えていますよ。

     私の頭には バッハ モーツアルトと一緒に 米若や虎造がギッシリ詰め込まれている次第。

    2010年9月23日木曜日

    デカルト

     
     我思う、ゆえに我あり(われおもう、ゆえにわれあり)はルネ・デカルトが自著「方法序説」の中で提唱した有名な命題である。原語はフランス語で“Je pense, donc je suis”、ラテン語訳で“cogito, ergo sum”(コーギトー・エルゴー・スム、cogito - 私は思う、ergo - それ故に、sum - 私は在る)、英語では“I think, therefore I am”、漢文に訳すると「我思故我存」、現代中国語では「我思故我在」。 ちなみにラテン語訳はデカルトと親交のあったメルセンヌ神父によるもので、デカルト自身は「哲学原理(Principia philosophiae)」で初めてこの言葉を使っている。
    ---------------------------------------
     この コーギトー・エルゴー・スム これを連発していた時期がありました。中学生の頃だったでしょうね。
     これをもって イッパシ?の哲学者になった気分で満足していました。

    気になる樹

     
     この写真は、これ迄に数度取り上げた記憶もあるのですが、左上に伸びる枝が気になるのですよ。
     -------と云うのは、いつだったか、この伸びた分の枝が、水平になっていた時があったのです。
     それは、多分降雨による荷重のせいで、そうなっていたと判断し、本日は雨の中わざわざ見に行ったのですが、それが いつもの通り左上に向いていましたねえ〜〜。

     どうしてだったのかなあ〜〜。

     ♪〜この〜木 なんの木、気になる樹 ♫〜〜云々、そんな歌がありましたよね。

     ともあれ、いつもいつもになっているなのです。

    恐竜時代

     
     恐竜(きょうりゅう)は、三畳紀に爬虫類から進化し中生代に繁栄した生物である。恐竜の大部分は白亜紀末期に絶滅したが、恐竜から分岐進化した鳥類は現在でも繁栄している。

     大量絶滅(たいりょうぜつめつ)とは、ある時期に多種類の生物が同時に絶滅することで、地質時代において幾度か見られる。多細胞生物が現れたベンド紀以降、5度の大量絶滅(オルドビス紀末、デボン紀末、ペルム紀末(P-T境界)、三畳紀末、白亜期末(K-T境界))と、それよりは若干規模の小さい絶滅が数度あった[1]とされる。大量絶滅の原因については、K-T境界のように隕石や彗星などの天体の衝突説が有力視されている事件や、P-T境界のように超大陸の形成と分裂に際する大規模な火山活動による環境変化(プルームテクトニクスも参照のこと)が有力視されている事件など様々であり、その原因は一定しているわけではない。
     大量絶滅の直後には、空席になったニッチ(生態的地位)を埋めるべく、生き延びた生物による急激な適応放散がおきる。例えば恐竜が絶滅したことにより、白亜紀には少数派であった哺乳類は、急速に多様化・大型化が進み、生態系の上位の存在として繁栄を享受することとなる。

    • 全世界規模で海岸線が後退した痕跡がみられ、これにより食物連鎖のバランスが崩れ、大量絶滅を引き起こしたという説がある。
    • 巨大なマントルの上昇流である「スーパープルーム」によって発生した大規模な火山活動が、大量絶滅の原因になったという説もある。超大陸であるパンゲア大陸の形成が、スーパープルームを引き起こしたとされる。

    以上 wikipediaより。
    ---------------------------------------
     このまま、地球温暖化が進めば、いずれ又恐竜時代が再来する事は確実でしょうよ。

    雨の日

     
     コンビニに買い物

     
     雨の歩道

     最近は、どう雨が多い感じがしますね。
     地球温暖化、だそうですから、それのオマケとして雨多くなる理由は分かるとして、この分では かっての石炭紀の如く、植物が大繁茂する時代に突入するのではありませんか?。

    「一本刀土俵入り」

     

     横綱になる夢を持っていた相撲取りの駒形茂兵衛は、一文無しで困っていたところを安孫子屋のお蔦に金を恵んでもらい助けられる。それから10年、ヤクザに落ちぶれてしまった茂兵衛だったが、お蔦に恩返しを果たすことは諦めきれなかった。やがてお蔦と再会を果たすが、そこに死んだはずの夫・辰三郎が現れる。夫が戻ってきて喜びのつかの間、辰三郎はイカサマバクチで追われる身で、たちまち一味がお蔦の家を取り囲む。茂兵衛は今こそ恩返しだと体を張ってお蔦たちを救い、借りた金を返し、晴れ晴れと「これが“駒形のしがねえ姿の土俵入り”」と静かに言い切った…。(以上 検索から)

     
     最近はエアコンの普及もあってか、窓を開けている家々は皆無です。

     もし茂兵衛が現在に生きていたとしたら、お蔦がいたにせよ、窓から声をかけて助けてくれる確率はゼロですよ。
     可哀想に、茂兵衛は 一文なしのまま野たれ死にするほか なかったでしょうなあ〜〜。 

    “ 講釈 ”

     

     
     載せたのは、 単に近くの雑木林ですが、この写真では 、それを---------- より芸術的観点から、この光景を現代世界の崩壊と捉え、更に、それを アウフハーベン し、加えて、モダニズムの立場から よりニヒリズム的表現にグレードアップさせたもの

     -------------- なんちゃって、こういう “ 講釈 ” って、芸術作品に、よく見かけるものではありませんか?。

     それらの中には、単に弄り過ぎた放棄作品のケースも結構ありそうな感じがする時もありますワイな。

     講釈は単なる “ 尻拭い ” と云うワケよ。

     (因に、載せたのは私が写したもので、他人様のものでは、ありませんので。)