2014年4月30日水曜日

元旦や〜


戦時中での、小学校5年生当時の国語の試験から。
因に、終戦は 小学校6年生の時で昭和20年8月。

載せた問題から一カ所のみ アップしてみますので。

四   次の俳句を口語体になほせ
※ 「はほせ」は、当時の仮名遣いで、 「なほせ」は現在では「なおせ(直せ)」。

元日や 一系の天子 不二の山

私が書いた 答が以下

元日といふのは、年の一番はじめの おめでたい日で 上には萬年も千年もかはらない ひとすじの天皇をいただき、地には二つとない山 富士山をあふいて、このありがたい国に うまれたことを かんしゃせずには (※ 旧かなでの もう一つの「い」で、ここではその「い」は出て来ない)られない

-----------とりあえず、そこだけのアップですが〜。
回答の文言がスマートに欠けるので、理解不可の回答ですが、それはそれ、まず設問がイヤな中身ですよなア〜。

国語はさておいて、修身(現在は 「道徳」かな?)となると、当時の道徳もさる事ながら、その かなりの頁数が上御一人(かみごいちにん-----天皇陛下)に関する内容が盛り込まれていたような記憶もありますね。

因に、大平洋戦争が終結したのは 6年生の夏でした。
負けて口惜しがったか は それ程 無かったと思う反面、子供ながら、これから先 どうなるのだろうか、と 将来を思い 途方に暮れた一面も持ち合わせましたよ。

一番怖かったのは、アメリカの軍隊がやって来て、当たり構わず日本人を銃で殺し歩く、と、そんな恐怖感も抱いたものでした〜。

そんな中で、ささやかながら、修身の勉強は、取り敢えずストップした事だったのですが、進駐軍がやって来る前迄に、5年6年の生徒一同のみ  改めて、修身とは別に、日本国史を教わった事でした〜。

その授業の前置きは「これからアメリカ軍がやって来ると、全く違った歴史を教えるにちがいないので、それに惑わされる事のないよう、しっかりした本当の日本の歴史を教える」と、それでしたね。
ともあれ、天照大神 のハナシから始まって大東亜戦争に至る迄の長い期間の歴史を10日くらい迄やりましたかなア〜。

それはそれ、やがて進駐軍がやって来て、どんなフレーズが記憶に残ったかと云えば、それは「ギブミーチョコレート」----------これでしたヨ〜。

大日本帝国の児童として存在していた我が身は、その「ギブミー云々」に ころりとひっくり返ってしまいましたね。
勿論、下々の、殆どの日本人が アメリカの兵隊サン大歓迎と叫び 、チョコレートは勿論、彼等のあらゆるモノに群がったのではないかなア〜。

まあ〜群がる事はさておいても、当時の日本人の大半が、心底ではチョコレートは欲しかった筈でしょうナア〜。

 因に、天照大神のハナシの中身などは、進駐軍のチョコレートを前に どっかへ吹き飛んで行ってしまいましたね。

散歩道から夕方近く −1−2


 夕方近くとは申せ、それを感じさせない画像のようで----。
何とはなしに咲き乱れている小さな花達の息吹が聞こえるような感じがしたりして〜。


 向うに見える空色の建物は地域の小学校で、まわり一面、 いずれにしても自然が取り囲んでいますよね〜。

 近くの路地ですが、売り出しの旗がひらめいているのには、年中行事?のような感じで眺めたりして〜。
ただ、家々から、多少であれ、離れている箇所に立っているようで、情報の伝達にも、結構気を配られているのがわかりますね。

------- それはそれ、頑張って〜と一言加えておきましょう。


毎度申し上げますが、芸術とも申したいような------畑への、これだけの気配りを丹念に行なうのは、やはり日本人であればこそ、の賜物でしょうなア〜。

散歩道から夕方近く −1


 ↑↓ 近くの保育園の鯉のぼりは、このへんでは一等賞のようでして〜。
いつ見ても、いつも元気で吹き流れているような感じがしますね。
-------- これぞ、鯉達の保育園への 最大のサービスなのでしょうなア〜。


ここの鯉のぼりは “ 団体鯉のぼり”  のようでして〜。


まあ〜あれは、屋根の上の鯉のぼりですね。

♫〜屋根より高い鯉のぼり〜♬〜。

------- 確かに、屋根より高い鯉のぼり、で  -------  それも、相当 高そうですヨ〜。

雲の行方



 窓から見る雲の流れは、目下 かなりの速度で、右から左へと動いていますね。
ここでの右から左へとなると、大体に於いて、北から南へとの方向になるのですが、何故、その流れになるのか、ちょっと分りませんな。


まあ、風にも、いろいろと都合があっての事だろう?〜と思いますので。

我が町の天気予報


 我が町 埼玉県新座市の天気予報からですが、「水」と出て??〜 一瞬 何だコリャ でしたた。

まあ〜「水」は「水曜日」と すぐ分ったのですが、これを見て、私に右倣えした方々も結構おられるのではないかナ?〜とか思ったりして-------。

 「水」は やはり「水曜日」と、 他の曜日も含めて、直された方がベターのような気もしましたがね。

以上、簡単なことだとも思いますので--------。

濡れたベランダ



二階の、濡れたベランダも、見ようによっては、写った手摺が、立体的に見える時があり、それなりに ちょっとビックリ!〜 する時もありまして〜。


そのベランダから見下ろした下の池--------池の鮒達は 現在の 雨続きの日々に、我が世の春?!〜とばかり、かなり活発に泳いでいるようでした ネ----------。

続く雨!〜


降り続く雨で、向うに見える 給水塔は、完全に消滅!>+ー? したようで〜。
------- この雨は、これからも長く続くような、そんな気配を感じますなア〜。

今日は寒い冷たい〜


今日は 寒い朝からの雨〜 それも いかにも冷たそうに音を立てて降り続いています〜。
「まる」は 御覧の通り、炬燵の中に へばり ついて ウンともスンとも云わず眠りこけていますね〜。

アタマが熱くなるのは いかがか、と思うものの、脳ミソが少ない分 助かっているいるのだろう、とか--------そんなところでしょうかナ〜。

窓からの眺め〜雨


 雨が結構降り出して、向うの方は霞んで よく見えませんね。


御覧の通り、給水塔は、消滅したが如く ようやく霞んで見えるようでして------。

散歩道から朝 −1−2


 ↑↓  草っ原に咲く 紫色の花  更に赤い花------ところを選ばず、のびのびと咲き乱れているサマがいいですよなア〜。

 ↓ 加えて 薄紫もあったりして〜



このへんは単なる道路際でありながら、この通り、キチンとしていて、まるで お菓子屋さんの如き 花のショーウインドウ もあったりして〜。

---------- 重ねて〜------道路際ですよ!〜。

散歩道から朝 −1



今朝は 小雨模様の中-----とは申せ  寒くもなく、枯れ草の中を始めとし、結構長い時間の散歩となりましたね。


 枯れ草もそうなら、緑いっぱい もあって、結構 長い散歩となりました〜。


 枯れ草も無ければ、緑も少ない------目にするのは新しく均した土の絨毯!〜これも結構キレイに見えるものでして〜。



このような季節になると、並び置かれた鉢の上には  それぞれの つなぎ目が 消滅!?してしまうのですよ〜。

2014年4月29日火曜日

日暮れ近くに---2


 カメラを持って写している我が身の影を見て、これでは ちょっと おかしいとも思いまして-----実際の私は手提げを持って この画像での左端に立って、右手にカメラを持っているのが、赤い紐を見ても 判ると思うのですが、画面では、我が身の影が右端なので、それは何故なのか----分りませんでしたね。

--------これぞ、今世紀 最大の謎でアル!〜とか申す次第ですので〜。


 ここの道路の明るさは、「まる」の影から推測するに、それ程に明るくない とも思うのですが〜------- ↓ 下の画像を見ると〜、洩れ出ずる光りは結構明るいのが分りますよね。


ここでの、洩れいずる光りから察するに、ここでの道路は相当に 暗いのではないかと思うほか ありません〜。
---------そんなに暗い道路って、有り得ませんよ、何より「まる」の姿を見ても分りますよね。


ここでは、左上の方からの大きい影と「まる」の影、加えて手前隅の三角形の影、いずれもに濃淡があるのですが、影には濃淡ってあるもんでございますかナ?〜いかがかな?。

以上、摩訶不思議な影の件でございました!〜。

日暮れ近くに〜



 この「まる」の影の大きさ-------夕暮れ時となればこそ、こんなにも巨大な?〜影が出来るのだ〜------まあ〜 そう云えば、そうだヨな----。


 陰影が巧みに配置され、これぞ、芸術性溢れるばかり?-----の 大傑作写真!のようで〜。


申せば、この黄色い花は、落日に於いてこそ、目立つように出来た花かもナ〜。


向うの雲が、スパッと切れているようで-------この傑作では、そこ迄は気がつきませんでしたなア〜。

ただ、あの明るい空間が無かったら、これだけの傑作写真は出なかったろう!〜------とかとか、云っちゃってヨ-------。

散歩道から





何でもない草っ原の散歩 、 それはそれ-------緑の中で、いい気分の散歩でした〜。

外は真っ暗?!のようで〜。


 いつもなら、この程度の眺め、だと思うのですが〜。


空が 一面 暗い雲に覆われて、ホント、夕暮れ時の状況のようで------。
時折、ゴロゴロとの音も聞こえるので、この分では  いきなり滝のような雨が降ってもおかしくはないでしょうなア〜 -------。

そんなことで  か、外には人っ子一人、誰であれ その姿が消え去っていますね。

昭和の日


現在の我が身にとっては毎日が休日なわけで、改めて 法定休日 と云われてもピンとは来ませんね。まして、それが「昭和の日」としては 於いておや!〜ですヨ!〜。

ともあれ、本日、4月29日は そのムカシの我々には確か「天長節」として存在していた記憶があります。

その日に歌う歌詞の一部が以下のようですが、全部となれば、他から 云われれば判るにせよ、私としては、思い出せずにオワリのようですなア〜。

♬〜 今日は ナントカ 〜 大君の、生まれたまいし よき日なり〜♫。------- 以下 忘却 ----

散歩道から〜続き


 よく歩く通りなのですが、時間によって電線の影が いろいろと場所を変えるところが、奇妙と思ったり、当たり前と感じたり、と、己れの思考が根拠もナシに変幻するのが不思議?!〜でして。

 たわわに咲いた花、でして〜。

「たわわ」とは、このような画像の説明文に入れて大丈夫な文言でしたかねえ〜。
「たわわに実った」とは云っても「たわわに咲いた」とは 云いませんよなア〜。

ホントは 重いような-------と、そんな意味をも含む言語なのでしょうネ〜。


---------  お人形かと思った程?〜可愛い女の子でした〜。

散歩道から〜




今日は終日 雨か?〜とも思ったのですが、目下のところは降る気配はありませんね。
------- 散歩も 悠々として無事終了を迎える事が出来ました。

戦艦「大和」続き


昭和20年4月6日、第二艦隊司令長官、伊藤整一中将の指揮のもとに、戦艦「大和」は徳山より出撃した。部隊編成は「大和」の他は軽巡一隻、駆逐艦八隻。大日本帝国海軍最後の艦隊であった。目標は沖縄本島の米軍艦隊終結地に強制座礁し、船体を固定させ、巨砲をもって敵艦隊を撃滅せんとするものであった。 但し、制空権の無い戦況のもとでは、目的地到達の可能性は殆どゼロに等しいとされていた。
 結果は予想通り適中し、翌4月7日午後九州南端南西方の海上で「大和」は米軍戦闘機の襲撃により大爆発を起こして沈没するに至った。>
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 この作戦のホントの意図はどこにあったのか、それはなんと大和に死に場所を与えるためだったと言いいます。
 又、乗務員の大半を占める水兵の、その大半は泳ぎを知らぬ少年兵で、彼等の死因は溺死であったとのこと。すべてはホントにムチャクチャなハナシでしたね。
戦艦大和の姿を見ていると、どことなく「蜂の巣」か「蟻塚」に似ているように思える時があります。これの視点は現在もなお対皇室に対する日本国民の意識に連なる とも云われている所以かと思いますが。

 大勢の蟻や蜂達が一匹の女王のために自らを犠牲にして、女王中心の「社会」を守ろうとするスタイル、そんな風に見えるのです。日本人は個人意識に乏しく、又、市民社会が歴史的に未成熟の儘であるためにか個人より集団が優先されるとは、まあ、常識だと思いますが、その結果、死生観もそれに添う形で出来上がっていくとするのも常識と言えるでしょう。

 集団のシンボルは「天皇」「国家」であったり「家」であったり「領主」であったり、果ては「会社」であったり、時代と共に変遷するとしても、いつの世でも、個人の属する社会のそれぞれの頂点がシンボルになっていると言えます。それは多分に儒教のせいだとか、農耕民族のせいだとか、草食動物の宿命だとか、言われているようですが、ともあれ「個」より「群れ」が重要視される原則は古来より崩れてはいません。従って、個人はシンボルに対しては時と場合によっては殉死するのが美徳になる----その論理はかなり強固に維持され現在に至っていると考えてよいと思いますよ。
 -----論旨が多少複雑になりますが、こんな社会構成のもとでは、個の領域と集団の領域の間に「神」は存在出来ない、従って、死生観は、西欧のそれとはかなり違ったものになる、と、そんな結論に達する予定なのですが、どうも論理の組立て不十分でとりあえずこの論旨については今回のところはこれ迄としておきますが・・・----------ご免なさい。
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 大東亜戦争は、航空機によるハワイ奇襲の大成功で幕をあけました。
 この作戦で日本側にもはっきり理解出来た事は、今度の戦争の勝敗は、もはや航空機を除外しては考えられない、と云う認識だったと思いますね。

 戦艦大和は、その戦争認識を持った数カ月後に竣工しました。航空機絶対優位の大東亜戦争開始時に、新しい認識からはずれた時代遅れのその巨体は最初からまさに「時代遅れそのまま」の宿命を持って進水したわけです。建造費は当時の国家予算の3パーセント、現在の金額に換算して約2.5 兆円という莫大なカネを要した巨大プロジェクトでした。
 因に、アメリカがB-29開発に着手したのは昭和14年とありました。
 大和建造の発想は、日露戦争での、帝国艦隊とロシア・バルチック艦隊の激突による大勝利の結果に基づいていた筈です。その時の歴史的な教訓から彼我の艦隊同士が相対して砲火を交えた事態を想定し、作戦はともあれ、最初から敵艦よりも大きい船体に敵よりも大きい大砲を備えた戦艦を用意し、それをもって敵艦を巨弾によって撃破する----そのような単純かつ明確なポリシーが大和建造の発想となったのです。文字通り「大艦巨砲」....大きいことはいいことだ・・・これだけの事だったと思いますよ。

 当時のアメリカの戦艦が搭載していた大砲は42サンチ砲、これは、スエズ運河を通過する際の限界に相当する大きさでした。日本ではそれを見越して不可能と云われた46 サンチ砲 九門を備えた大鑑巨砲の戦艦を考えたのです。この種の大砲でその差4 センチは射程距離にして300メートルの差、つまり敵艦の大砲の最大射程距離より更に300メートル離れた位置から撃つ事が出来る計算だったのです。
 大和の吃水線以下の船腹は、超厚手の多数の鋼鉄製小ブロックによって区分されていました。敵の砲弾によって船腹が破壊されても浸水が他に及ばぬように最小限に食い止めるためです。更に、仮に左舷のブロックに被弾して浸水した場合、右舷の反対側の同じ位置の小ブロックに、自動的に海水が入り込み船体のバランスが崩れないような設計になっていました。大和はその他あらゆる箇所において「不沈」を豪語するだけの徹底的な防御策が講じられていたのです。
 当初、疎かにされていた対空砲火も、何度かの改造によってこれも徹底的に充実され、大和は満身あたかもハリネズミのような物凄いスタイルに変容しています。
 沖縄に向かった大和の出動は味方の援護飛行機ゼロの布陣で進むほかありませんでした。ヒコウキはもはや残されていなかったのです。
 迎え撃った米軍の空軍機は数百機、完全なる航空機対艦船の戦いでしたね。

 米軍はどのような作戦に出たか?。-----それは徹底的に左舷を攻める事でした。数本の魚雷が大和の左船腹に命中し、予定通り?ブロックが破壊され、これによって、これも自動的に右側のブロックに海水を引き込み、しばらくの間は船体は傾くことなくバランスは保たれましたが、極端な左舷攻撃による破壊により、やがて右舷のブロックは海水で満杯になると同時にバランス保持が困難になり、やがて船体は大きく傾斜し海中に引き込まれる寸前、火薬庫に引火し大和は大爆発を起こし海中に没し始め、戦闘は終結しました。

 大東亜戦争は航空機が絶対的な戦力になる、その預言通りの結果があまりにも無惨な姿で実証されたのです。
 「大和は不沈である。もし、その大和が沈むことがあるとすれば、その時は日本も沈む時である・・・・」これを語った日本軍将軍の言葉通り、大和が沈むことで、その数ケ月後、大日本帝国は無条件降伏をしたのでした。
 当時の大和の建造には、勿論、最先端のアイデア、技術が用いられました。46センチ砲もそうなら、船腹のブロック化、もそうでした。その他、ありとあらゆる箇所に優れた近代的建造技術が採用され、その点に於いては敵米英戦艦をはるかに凌駕していました。それは確かな事実でしょう。然し、それらは、その時点での新鋭技術ではあったものの、その先を見越しての配慮や可能性については全く「論外の遅れ」の状態にあったようです。その最たるモノはレーダーでしたね。成る程、時の大和にも最終的にレーダー(電波探知機)は装着されましたが、波長が長過ぎて受像ははっきりせず、レンズを使った測距儀の補助にしかなり得なかった存在でした。短波を使ってクリアーな像を結んでいた敵のレーダーには及ぶべくもなかったのです。

 この時の敵の砲弾や魚雷にはどうだったか詳しい事実は分りませんが、銃砲弾の先端に、初歩的とは云え小さな赤外線レーダーを備えて命中度を飛躍的にアップさせた技術も用いられたと聞きます。その他、敵の航空母艦には、これも初期的なコンピューターが搭載されていたとか、ロケット砲はどうだったか、人造ゴム、ビニール等の軍事用素材の利用は実現されていたか、そして最終的に登場した原子爆弾(勿論、これは大和の範疇外ですが。)となると、彼我の軍事技術水準にはあまりにも大きい落差があったと認めるほかありません。その目で眺めてみると、所詮、大和は単なる鉄の塊(かたまり)に過ぎなかった、と酷評されてもやむを得ませんね。敵の進歩の前に沈むべくして沈んだこれはやはり世界の「三大馬鹿」(ピラミッド・万里の長城・戦艦「大和」)の一つだったのかも知れません。
 大和は、日露戦争の亡霊から生まれた明治時代の遺物に等しい産物でした。結局 何の戦果も挙げず、そして哀れにも沈められるべくして沈められて終わりました。そこには儚(はかない)滅びの美学らしきモノはありましたが、三千余人を失わせた惨い(むごい)現実もあったのです。
 いずれにしても「ゼロ戦」と「大和」、これが大日本帝国のシンボリックな兵器だったとすれば、アメリカのそれは「B-29」と「原爆」、これでしたでしょう。然し、お分かりのように、どう考えても それぞれのポテンシャルが違っていた感じがしますね。

戦艦「大和」


私が描いた「戦艦大和」-------多少ならず トップヘビーになってしまいましたなア〜。
※( 右端のライターは画面の大きさとの比較のためのもの。)


 
戦艦「大和」
大和が着工されたのが昭和12年、一方 原爆は昭和17年(1942年)だったと聞きます。
 B-29の開発スタートは確か昭和14年と聞きましたが、ゼロ戦は文字通り紀元2600年(昭和15年)を記念しての名称です。これは多分完成しての命名でしょうね。

 ・・・・・いずれにしても、大体 同じような時期に争って開発にシノギを削った結果 出来上がった自慢の兵器だった、と云う事でしょう。

 但し、重ねて申し上げますが、双方の開発した武器には その威力に於て決定的な差があった-----結局は これだったでしょうなあ~~。
所詮はアナログの世界・・・・巨大で複雑であれば あるほど 設計では 迷路に落ち込んだと思われるのですが?・・・・。

 戦艦 大和 は蜂の巣のごとく武装されている・・・・とは、よく耳にします。上の写真をご覧なさいな。このへんが蜂の巣のように見える箇所でしょうか。
 素人目には、なにやら規則性に欠ける雑な設計のように思えますが、それはそれで設計者の言い分もあるのでしょう。特に、この戦艦は、途中で何度かの追加設計で改造が加えられた筈なので、余計に そう見えるような仕上がりに せざるを得なかった事情もあったと思います。

 然し、いずれにしても、これでは屋上屋を重ねるような感じがしますね。スマートで機能的な感じは受けません。素人なりの感覚でそう思えるのですから、例えば、各種目標設定マニアル・・・人員の数と能力、加えて、各種の手順・・・・弾丸の配送、兵員の動き、交代、 補充、更にそれらから、ラッキョウの処理・・・オイル交換 負傷者の仮手当て、非常事態発生の時・・・etc。それらが、仮に、すべてメカニックに自動的に指示するようになっていたとしたら、どれだけ複雑に配線をセットしても、機能に過不足は生じないどころかネックの多発で、満足な機能発揮は得られなかったのではないかと考えてしまいます。
なにせ当時はICの時代ではありませんから・・・・謄写版で刷った??マニアルに載っているのは、手動による操作手順、それの下敷きになっているのは、すべて歯車と梃子 の組み合わせ、加えて、人間による締め加減、当たり加減、とかとか ---- その組み合わせから出来た手引書、と、そんな時代、当然、余計な 心配 ・懸念 を感じてしまいますね。電子器機と云えば これまた真空管時代、複雑に絡む配線など到底出来る時代ではありませんでした。

 そう云えば 当時の潜水艦には “ 伝声管 ” なる人間の声を通すパイプが張り巡らされてありましたよ。そのスタイルで、この戦艦にも 到るところで重要な箇所には張り巡らされていたのかも??....そんな事も浮かんで来る次第でした。

 ただ、巷間云われる事に「馬鹿な息子ほどかわいい」でしょうか?。戦艦大和は飽きず懲りず、これからも永遠に?バカ息子の使命を果たすべく儚い世俗の世界に君臨し続けて行く事でしょう。
 -------- かく申す、この私などの「バカ息子崇拝者」を筆頭にして・・・。

窓からの眺め


 ↑↓ どんよりと曇った空で、何となく朝になった?〜------と云った今朝でした〜。


 給水塔も すっかり 空に溶け込んでしまっていましたね。


----------  仰ぎ見る雲間の太陽は、今朝はホント小さく見えましたヨ!〜。