2010年6月30日水曜日

昔?の野火止用水


 市のパンフレットからですが、昭和30年代の野火止用水風景 とあります。
 昭和30年代となると、私が高校を卒業して間もなくの頃、その記憶の延長線からでは、つい最近のように思えるのですが、これを見ると 最近どころか 明治 大正 時代のように思えてしまいます。

 その当時は、まだまだこのような光景だったのですねえ〜 信じられない画面です。

梅雨の晴れ間


 今日の午後、文字通り 梅雨の晴れ間 が垣間見られましたね。
 “ 晴れ間 “ が珍しいのは梅雨であればこそでしょう。

 現在は?-------- 全天 隈なく雲に覆われています。

野火止用水源流


 野火止用水の源流は、玉川上水からの分流で、現地に行ってみると、源流から ちょっと離れた箇所から湧き水のように流れ出していましたね。
 載せた写真は資料からですが、記憶では この写真よりは、岩、積み石、等の背丈が多少低かったような記憶もあります。
 勿論、私が写して来た写真もあって、どこかにアップしてあるのですが、情けない事に、それも どこだったか思い出せません。
 ボケも極まれり の感がしますなあ〜〜。
 ----------- ともあれ、源流にせよキチンと把握出来るのは、この用水が文字通り人工の流れ-----それによる理由もあるでしょう。

野火止用水-2



我が家の すぐ近くの野火止用水です。
今日は猛暑!----------- 走っているクルマも まばらでした。

野火止用水


この地図の中央 右上方に伸びる舌状の台地が 野火止台地。その中央部に台地の形状に沿って緑色の線が見えますが、それが「野火止用水路」です。

 我が家はこの図の ほぼ中央に位置していますね。
 舌状の台地の右の凹地には落合川、左側には柳瀬川が流れています。

 戦前の国定「小学校読本」に載った野火止用水 

「東京の西北数里に野火止という処がある。今は埼玉県北足立郡に属しているが、見渡す限り打ち続く畠の間には、森あり丘あり家あり流れあり、春は菜の花麦の緑、秋はすすきの波雑木の紅葉、武蔵野の面影が今に残って、見るからに野趣に満ちた眺である。

 昔此の附近一帯は、彼の知恵伊豆といはれた松平信綱の領地で、其の菩提寺平林寺も此の野火止にある。

 平林寺の門をくぐって、薄暗いばっかりに茂った楓の下を進むと約二町、本堂について右折すれば、杉や檜の生ひ茂った林の奥に、信綱の霊は静かに眠っている。敷石の苔をふんで此処に詣でる者は、あたりの静けさを破って、玉のごとき水が勢よく流れているのを見るであろう。有名な野火止の用水とは即ちこれで、此の水を引くに就いては、おもしろい話が今に伝へられている。

  元来野火止一帯は、土地高く、水利に欠け、土やせて、見るからに貧しい村であった。信綱が川越城主として此の地を領していた時、代官安松金右衛門は新たに掘を掘って玉川の水を引けば必ず田畑が出来ると申し出た。そこで、信綱がその費用の見積もりを尋ねると、三千両あればよいといふ。当時の三千両は非常な大金であるが、信綱は此の為に後々の人まで利益をうけることが出来るならば幸であると、直ちに掘を掘ることを安松に命じた。安松は命を奉じて数百人の人夫を督し、いよいよ工事に着手した。さうして今の中央線立川駅の北方一里ばかりの処から、此の野火止を過ぎ、志木町の新河岸川まで六里の間に掘を通じて、玉川の水を引くことにした。

 工事はやがて見事に落成したが、しかし意外にも一滴の水も流れて来ない。信綱は之を見て安松をなじると、安松はとにかく明年までの猶予を願ひ出たが、翌年になっても水はやはり来ない。ここに至って信綱は、安松が地勢の高低を考へずに工事を進めたものとして、その手落を責めたが、安松は尚自分を信じて疑はない。元来此の附近は土地が乾き風が烈しいために、これまで非常に土ほこりが多く、客のある場合には、必ず座敷を掃いて入れなければならなかった。然るに今年はそんな事が全くない。のみならず、野菜の出来のよいことも例年と異なっている。これは水分が地をうるほしているためで、確かに彼の掘のお陰に違ひない。何とぞ更に一年の猶予をと願ひ出た。然るに翌年の夏、一夜大雨が降ると、奔流が水音高く進み来て、忽ち六里の掘にみなぎった。信綱は始めて安松が自ら信ずることの強いのに感歎し、且厚く其の功を賞したという。

 草ひいで木茂り、見渡す限り豊かな田畑の間を過ぎて平林寺に詣でる者は、ただに春の花や秋の紅葉を賞するばかりでなく、今なほ流れて尽きぬ用水に対して、当年の苦心をしのび、功績のあった人々に深い感謝を捧げなければならぬ。」

 この教科書は戦前のいつ頃に使われたのか分かりませんが、かなりの年輩の方は記憶にあるとの事でした。

坂道


 私の住まいは野火止台地と称する武蔵野台地の一角、その上にあります。
 台地の上なのでスモッグの吹きだまりにもならず、 加えて、夜空の星もきれいで快適なのですが--------。

 この台地の上から 台地下の駅や商店街を往復するとなると通常はバスを利用するので全く問題はないのですが、時として、反対方向に向かうとなると、バスは走ってないのが災いで?、このような坂を上り下りしなければなりません。以前なら、そのまま自転車に乗って往復していたのですが、作今は到底ムリになりましたね。
 上りとなると、自転車から下りて エッチラ、エッチラ、喘ぎ喘ぎ上るとなる次第。

 クルマを止めて相当の年月になりますが、このような場合に悔いが残りますね。
 ただ、この方面への用件となると、滅多にないので助かってはいますが。

 --------- ともあれ、トシは取りたくないもんですなあ〜〜。

 ※ 写真では平板に見えて たいした事もなさそうですが、結構 傾斜のキツイ坂なのですよ。

有機EL照明


 次世代の照明は「有機EL照明」

 時折目にする記事がありますが、これは理に適っていると思いますね。
  どの程度の 将来 未来 になるのか見当がつきませんが、それの到来は確かでしょう。

2010年6月29日火曜日

アメリカの戦艦



真珠湾で炎上したアメリカの戦艦。


 大東亜戦争は日本軍のハワイ奇襲によって幕があけられ、まず目に飛び込んで来たのは炎上するアメリカの艦船の写真でした。
 そこには始めて見るアメリカの戦艦の姿を見て、なんとまあ〜古臭いスタイルかと子供ながら驚いた記憶があります。それは私の小学校2年生の時でしたよ。
 いずれもが柱を組んだ櫓(やぐら)そのものに見えましたね。

 それに比較して大日本帝国海軍の戦艦は堂々として間違い無しに強力な存在に思えたのでした。

 それは今だにそう見えるのですから確かな記憶------と申しても、そこに何程の意味があるのかは別問題でしょうが。

台所改装


(上)改装前

(下)改装後


 その気になって、キチンと改装をすると、それなりに見栄えがするようになるものでした。

「じゅず」


“ じゅず ” は「数珠」と書くか、それとも「珠数」と書くか、迷った事はありませんか?。
 確認するため、検索したところ下のような解釈がされていました。
 ---------- ご参考のため。
 
 数珠(じゅず、ずず)は穴が貫通した多くの珠に糸の束を通し輪にした法具。仏をずる時に用いるとの意味から「念珠」(ねんじゅ)とも呼ばれる。字の前後を入れ替えて「珠数」と書く場合もある。

散歩道から

前にも載せた散歩道での光景で、正面方向は ありふれた雑木林です。

そこの住宅近くで電柱での工事をやっているところ。
ただ、単なる住宅地とは云え、望遠で撮ると、何やら奥深い森林地帯でのそれと思える程の、 超危険作業!のように見えてしまうのですが、どうでしょうか。

2010年6月28日月曜日

福井地震


福井地震(ふくいじしん)は、1948年(昭和23年)6月28日16時13分29秒に発生し、福井県を中心に北陸から北近畿を襲った地震である。

震源は、福井県坂井郡丸岡町(現坂井市丸岡町)付近。戦後復興間もない福井市を直撃した都市直下型地震。規模はM7.1。

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ありましたねえ〜〜。覚えています。

但し、それが あの年の今日である事までは勿論知りませんでした。検索途中で出て来たので取り上げてみた次第。

 ------------- その年となると、私の新制中学の時。従って、当然ながら福井県出身の友人知人の類は一人もいませんでした。

 後年、会社時代に たまたま一人いたので聞きただしたところ、それなりの返事が返って来ましたが、既にムカシ物語の範囲でしたね。

 ただ、載せたデパートの写真は有名になりました。

 このデパートは長年にわたって全国規模で認知?され続けたのではありませんか?。

ピカソ-2


若い頃のピカソの作品を もうひとつ入れておきます。

ピカソ

若い頃のピカソの作品

それが、何故このような絵を描くようになったのか、私にとっては理解を超えてしまっていますね。

おしん



おしん』は、1983年4月4日から1984年3月31日まで放送されたNHK 連続テレビ小説8月15日から8月20日までの6日間は、『もうひとりのおしん』放送につき中断。連続テレビ小説では『鳩子の海』以来の1年間放送となった。全297話。NHKテレビ放送開始30周年記念作品。

あらすじ [編集]

  • 1983年、列車の中である老婦人が座っていた。彼女の名は田倉(たのくら)しん。昔風に “ おしん” とよばれ、スーパーの経営者であった彼女は血のつながらない孫を連れて、故郷である山形の寒村へと向かいながら辛い人生を振り返っていた…。自分の事だけしか考えない経営方針に突き進む息子・仁に悩んだおしんが、どこでどうしてそういう息子にしてしまったか、自分の軌跡を辿る旅に出る。
  • ---------------------------------------------------------------------------
    おしんで有名になったのが山形県でしたね。
    そうは云っても、山形県と申せば、いまだにその おしん 同様の暗い社会が実在するかのように思われたのが心外の極みでしたよ。
     ただ、確かに、時代は近代社会ではあっても、その根っこには おしん 的環境は、隠れた実態を兼ねていくらでも存在していた(存在している)のは事実かも知れませんね。

夏の雑木林


 近くの雑木林の風情ですが、こうなると緑深き原始林、とか、そう思える場所のようですが、よく見ての如く、周囲には住宅が密集している地でもあります。
 ------------ このアンバランスが面白いと思うのですよ。

大東亜戦争美術展

下図は前にも載せましたが、藤田嗣治「サイパン島玉砕」の作品です。
上の絵を含んだ絵画展が山形にやって来たのは戦時中でした
「大東亜戦争美術展」と銘打った展覧会で、学校で連れられて見に行った記憶が残っています。

 ただ、前にも書きましたが、この絵を含んだ数点が小学生には拝観禁止としてあって観られませんんでしたね。

 その絵画展は、一体どのような催し物だったのか調べて見た結果が下記でした。多分それがそうだったのでしょう。
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1943年5月に大日本美術報国会が横山大観を会長として創立。同年12月「第二回大東亜戦争美術展」を開催。
1944年10月には「戦時特別美術展」が開催。
1945年4月には「戦争記録画展」が開催。
戦後、1946年GHQに153点の「戦争記録画」が接収されアメリカに運ばれたが、1970年に日本に無期限貸与という形で返還され、現在東京国立近代美術館に保管されている。これまで部分的には公開されたことがある。
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ともあれ、観てはならぬ、とのお達しが出た作となると、その記憶から詮索したくなるものですよ。
------------- と云うことで、上記の美術展であった事は確かなようです。

ゴッホ

炎の人「ヴァン・ゴッホ」



彼こそ 真の画家― その名はヴィンセント・ヴァン・ゴッホ。太陽とひまわりの、ときに狂気の画家として知られる天才画家 ゴッホ― 1951年、劇団民藝にて初めて上演され絶賛を博す。時代を撃ち、人間を描くことにおいて並ぶもののない劇作家 三好十郎による力強く骨太、「真」の戯曲。
作: 三好十郎 演出: 鵜山仁
出演: 仲代達矢、西山知佐 ほか
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芝居でゴッホを観たとしても、まあ〜たかが知れている、そう思いながら観たのを覚えています。
然し、それは とんでもない誤解で、芝居でこそが100パーセント表現出来るのではないか、と思った程でした。

上記では「劇団民藝」とありますが、私が観たのは「前進座」でなかったかなとも思うのですが、今となっては はっきりしません。
 ------- 多分そうです。

ゴッホ「夜のカフエテラス」

ゴッホ「夜のカフエテラス」

その現場は観光客で大賑わい。
かっては、その大半は日本人だったとか-----------。
現在は どうやら中国人らしいと聞き及んでいますが。
 ※ 残念ながら、私は出向いた事はありません。
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 以下Wikipediaより。

夜のカフェテラス (英語名:The Café Terrace on the Place du Forum, Arles, at Night) は、1888年9月にフィンセント・ファン・ゴッホによってかかれた絵画油彩

フランスアルルの星空の下、人でにぎわうカフェテラスが描かれている。この絵でゴッホは初めてをあまり使わずに夜空を描いた。

モデルとなったカフェはアルルのプラス・デュ・フォルムという広場に面した店で、「カフェ・バン・ゴッホ」という名で現存する。

2010年6月27日日曜日

散歩道から


 今日は暑い一日でした。

藤田嗣治 1944年作

藤田嗣治の「サイパン島 玉砕」
名画ですが、どう見ても真っ黒?でよく分からない絵ですよ。
経年劣化?とでも云うのか、どうにもならないのでしょうね。

それを画像処理してみたのが これです。
この方法が許されるものか どうななのか、判断はその筋の有識者にお任せするほかないとは思うのですが。
------------いかがでしょうか。

あの頃の今頃


昭和20年6月26日の新聞(復刻版)から。
沖縄玉砕の記事です。
玉砕となると、サイパン、硫黄島、そして沖縄、と、次から次へと玉砕が続いて、もうダメなんか、とは子供でも感じ取りましたね。
 然し、------だからどうだ、と云われても何も分からないだけだし、現実を そのまま受け取る以外にありませんでした。
 その当時に至っても、学校は平常通り続いていたので、暑いのを我慢して防空頭巾をかぶって、まだまだ普段通り 勉強を続けていた頃 --------- それは私の小学校6年生の時です。

夜露





 今朝の散歩道からですが、道ばたの草むらに宿る “ 夜露 ” の小さな煌めきに風情がありましたね。

2010年6月26日土曜日

月食


 今日は確か月食がある筈だと思って、先刻から気をつけているのですが、満天これ曇天で、全くダメみたいですなあ〜〜。
 載せた写真は参考です。

戦争画家

これは私の作品「戦艦大和」

松添猛 プリンスオブウエールズ撃沈


小松崎茂 戦艦大和

 これぞ戦争画家三人の傑作!〜〜なんちゃって---------- 。

樺島勝一



 樺島勝一

 彼は挿絵画家の神様!でしたね。
 目標は、彼の絵を超える事?!、その一点にありましたよ。
 ------- 残念ながら、いまだに超えた?とは全く思えない次第ですが ----(?)。

  載せたのは、彼の かなり若い頃の作品のようです。
 ------------ それにしても、その彼のタッチには一分の隙もありませんね。

“人間 ” の居る風景




 チビ犬「まる」との散歩中、通りから外れた住宅街となると、 人間様 ------- 特に子供など、その姿は滅多に見られないのですが、このような一見 煤けたような?場所に来ると始めて元気な子供を見る事が出来るのですよ。
 ----------- 何かしら ほっとしますね。

 現代の住宅は、いずれもがエアコンを利かせてあるせいか、すべて密封された如く門を閉ざしたまま、その中は窺い知る事が出来ません。これは高級な住宅街程そうではありませんか?。

  幸いな事に、このへんの住宅街には何の衒いもないせいか、加えて、煤けた?家も多いせいか、元気な子供の姿が このように普段から見られるのです。

 ささやかながら、大勢の子供が戸外で跳ね回っている光景こそ、本来の人間社会の土台になっているのだと思うのですよ---------- そう思うのですが いかがでしょうか。

散歩道から

 前にも載せたのですが、正面の森?がかなり迫力で迫って来る感じを受ける場所なのですよ。

 同じ場所を、その迫力を狙って昨日の夕方に写したもの。
 ただ、やっぱり写真では実感がでませんなあ〜。

一致協力を


これは 面従背否 かと思ったのですが、意味は全く違います。
揶揄するのは簡単ですが、やはり心底から頑張って貰いたいとの気持ちが強かったですね。
勿論、現在の状況に於いても然りです。
 常に一致協力、この寛容の精神をお忘れなく--------。

面従背否


 ミッドウエイ作戦では、いつぞや見た映画でだったかどうか、覚えている画面があって、それは、一度は、空母に並んでいる攻撃機に魚雷をセットさせながら急遽魚雷ではなく爆弾に切り換えさせる--------更にそれを局面が変わったとの情報から、再度魚雷に切り換える-------とか、指示の混乱があって、この時のもたつきが決定的な破局を迎えてしまう、と そんな映画でしたね。
 これに似たような事柄は、特に我が国に於いて多いのかどうか定かではないのですが、よく生じますね。
 つまり人間の組織が、いかなる場合でも、うまく作用しないケースがあると云う事で、これが他の国とは違っているのですよ。
 それに加えて“面従背否”なる言葉もありますよね。無能な上官だっと知った折り、部下には この面従背否が無かったかどうか、それも問われるべきだったかも知れません。

  • ※ 「面従背否」うわべだけ上の者に従うふりをしているが、内心では従わないこと。▽「面従」は人の面前でだけ従うこと。「腹」は心の中のこと。「背」は背くこと。

戦時中の今頃-2


 戦後に出た昭和17年6月11日の 復刻版新聞からですが、アリューシャンへの進攻が主で、ミッドウエイの方は二番ニュースです。

 ともあれ、ミッドウエイ海戦は、甚大な損害を被った大敗北の海戦でした。

 この海戦での敗北が、その後の展開を決定的に したのではありませんか。