2010年6月30日水曜日

野火止用水


この地図の中央 右上方に伸びる舌状の台地が 野火止台地。その中央部に台地の形状に沿って緑色の線が見えますが、それが「野火止用水路」です。

 我が家はこの図の ほぼ中央に位置していますね。
 舌状の台地の右の凹地には落合川、左側には柳瀬川が流れています。

 戦前の国定「小学校読本」に載った野火止用水 

「東京の西北数里に野火止という処がある。今は埼玉県北足立郡に属しているが、見渡す限り打ち続く畠の間には、森あり丘あり家あり流れあり、春は菜の花麦の緑、秋はすすきの波雑木の紅葉、武蔵野の面影が今に残って、見るからに野趣に満ちた眺である。

 昔此の附近一帯は、彼の知恵伊豆といはれた松平信綱の領地で、其の菩提寺平林寺も此の野火止にある。

 平林寺の門をくぐって、薄暗いばっかりに茂った楓の下を進むと約二町、本堂について右折すれば、杉や檜の生ひ茂った林の奥に、信綱の霊は静かに眠っている。敷石の苔をふんで此処に詣でる者は、あたりの静けさを破って、玉のごとき水が勢よく流れているのを見るであろう。有名な野火止の用水とは即ちこれで、此の水を引くに就いては、おもしろい話が今に伝へられている。

  元来野火止一帯は、土地高く、水利に欠け、土やせて、見るからに貧しい村であった。信綱が川越城主として此の地を領していた時、代官安松金右衛門は新たに掘を掘って玉川の水を引けば必ず田畑が出来ると申し出た。そこで、信綱がその費用の見積もりを尋ねると、三千両あればよいといふ。当時の三千両は非常な大金であるが、信綱は此の為に後々の人まで利益をうけることが出来るならば幸であると、直ちに掘を掘ることを安松に命じた。安松は命を奉じて数百人の人夫を督し、いよいよ工事に着手した。さうして今の中央線立川駅の北方一里ばかりの処から、此の野火止を過ぎ、志木町の新河岸川まで六里の間に掘を通じて、玉川の水を引くことにした。

 工事はやがて見事に落成したが、しかし意外にも一滴の水も流れて来ない。信綱は之を見て安松をなじると、安松はとにかく明年までの猶予を願ひ出たが、翌年になっても水はやはり来ない。ここに至って信綱は、安松が地勢の高低を考へずに工事を進めたものとして、その手落を責めたが、安松は尚自分を信じて疑はない。元来此の附近は土地が乾き風が烈しいために、これまで非常に土ほこりが多く、客のある場合には、必ず座敷を掃いて入れなければならなかった。然るに今年はそんな事が全くない。のみならず、野菜の出来のよいことも例年と異なっている。これは水分が地をうるほしているためで、確かに彼の掘のお陰に違ひない。何とぞ更に一年の猶予をと願ひ出た。然るに翌年の夏、一夜大雨が降ると、奔流が水音高く進み来て、忽ち六里の掘にみなぎった。信綱は始めて安松が自ら信ずることの強いのに感歎し、且厚く其の功を賞したという。

 草ひいで木茂り、見渡す限り豊かな田畑の間を過ぎて平林寺に詣でる者は、ただに春の花や秋の紅葉を賞するばかりでなく、今なほ流れて尽きぬ用水に対して、当年の苦心をしのび、功績のあった人々に深い感謝を捧げなければならぬ。」

 この教科書は戦前のいつ頃に使われたのか分かりませんが、かなりの年輩の方は記憶にあるとの事でした。

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