鎌倉攻撃の際に、大仏貞直の守る極楽寺切通しの守りが固く、さらに海岸は北条方の船団が固めていたが、義貞が稲村ヶ崎で黄金造りの太刀を海に投じ竜神に祈願すると、潮が引いて干潟が現れて強行突破が可能になったという話が『太平記』などに見られ、文部省唱歌にも唄われた。
なお、『太平記』では、この日を元弘3年(1333年)5月21日としているが、大正4年(1915年)に小川清彦がこの日前後の稲村ヶ崎における潮汐を計算したところ、同日は干潮でなく、実際には幕府軍が新田軍が稲村ヶ崎を渡れないと見て油断したところを義貞が海水を冒して稲村ヶ崎を渡ったとする見解を出した。これに対して、平成5年(1993年)になって石井進が小川の計算記録と当時の古記録との照合から、新田軍の稲村ヶ崎越え及び鎌倉攻撃開始を干潮であった5月18日午後とするのが妥当であり、『太平記』が日付を誤って記しているとする見解を発表している[41]。
いずれにしても、「太平記」見て来たようなウソを書き-------この範囲でしょうね。
以下の歌も懐かしいですね。 ♪ 七里ガ浜の磯伝い 稲村ガ崎 名将の 剣投ぜし 古戦場 〜〜〜〜♪
0 件のコメント:
コメントを投稿