2011年4月23日土曜日

源義経

 
 
 源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代末期の武将である。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。
 河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に奥州平泉へ下り、奥州藤原氏の当主藤原秀衡の庇護を受ける。兄頼朝平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷屋島壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、その最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によってその怒りを買い、それに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼ったが秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てた。
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 以上、検索からの記事ですが、義経の、その最期は世上多くの人の同情を引き、美男武士、加えて判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉、等々、多くの伝説、物語を産んだ------------とも 聞きますよね。
 確かに、義経は古来より悲劇の人物として扱われ、いろんな物語に登場するのですが、その姿形となると、世に云う美男の武士とは到底思えない風体が描かれています。載せた絵が、それらの代表作かと思えるのですが、どうして、そのような貧弱な風体で描かれているのか、不思議だと思えませんか?。 

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