2010年12月1日水曜日

俊寛

 平安時代となると、この「僧 俊寛」も外せないでしょうね。

 
 以下 検索より。
 俊寛(しゅんかん、康治2年(1143年) - 治承3年3月2日(1179年4月10日))は平安時代後期の真言宗の僧。村上源氏の出身で、木寺(仁和寺院家)の法印寛雅の子。別の呼び名として、僧都と呼ばれる位の名を付け俊寛僧都(しゅんかんそうず)などとも呼ばれる。

 俊寛が流された鬼界ヶ島の場所については、鹿児島県大島郡喜界町の喜界島、鹿児島県鹿児島郡三島村の硫黄島、長崎県長崎市の伊王島など諸説ありはっきりしていない。また、ひそかに島を脱出したという説も多く、鹿児島県阿久根市や出水市、佐賀県佐賀市などにも俊寛に関する言い伝えが残っている。
 
 『平家物語』によると、鬼界ヶ島に流された後の俊寛ら三人は望郷の日々を過ごし、成経と康頼は千本の卒塔婆を作り海に流すことを発心するが、俊寛はこれに加わらなかった。やがて、一本の卒塔婆が安芸国厳島に流れ着く[2]。 これに心を打たれた平清盛は、高倉天皇の中宮となっている娘の徳子の安産祈願の恩赦を行う[3]。 翌安元4年1178年に船が鬼界ヶ島にやって来るが成経と康頼のみが赦されており、俊寛は謀議の張本者という理由から赦されず島に一人とり残された。俊寛は絶望して悲嘆に暮れる[4]。 翌安元5年(1179年)、俊寛の侍童だった有王が鬼界ヶ島を訪れ、変わり果てた姿の俊寛と再会した[5]。有王から娘の手紙を受け取った俊寛は死を決意して、食を断ち自害した。有王は鬼界ヶ島より俊寛の灰骨を京へ持ち帰った[6]。

藤原 基俊

 
 
 藤原 基俊(ふじわら の もととし、康平3年(1060年)- 永治2年1月16日(1142年2月20日))は、平安時代後期の公家・歌人。父は右大臣藤原俊家。
藤原氏の主流である藤原北家の出身で藤原道長の曾孫にあるが、官位には恵まれず従五位上左衛門佐にとどまった。1138年(保延4年)に出家し、覚舜(かくしゅん)と称した。
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 藤原 基俊は書の大家との事。載せたのが彼の書ですが、残念ながら読めませんね。勿論、この書が 上手いのか下手なのか、それも判断出来ませんでした。

 下段に載せたのも 藤原 基俊と、その彼の書です。

----いぬめり

 
 
   ご参考までに。

秋深し

 

 

 
 契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり ”
 この----- 今年の秋もいぬめり-------これの「いぬめり」が微妙でしたね。

 そんな文語体がありました〜〜。
 憶えていますか?。

 --------- 何の文章だったのか なア〜〜。

動物の色

 
 

 
 近所で よく見かける黒猫で、飼い猫なのか捨て猫なのか不明ですが、猫のみならず犬にせよ馬にせよ、多色の動物は結構見られる反面、虎とかライオンとか豹 etc になると、ほぼ一色に決まっているような感じがしますが?--------- その理由は生存の生域?次第、となるのかどうか、どうなんでしょうね。

 やはり、それにはそれ相応の理由があっての事だと思うのでしょうが、そのホントの理由が知りたいものです。

散歩道から--2

 
 
 下段の画像を画像処理でコントラストを強めてみました。
 それにしても、地面の丸い光を写そうとしてシャッターを切っただけのものが、投射光線迄が写るとは全く思ってもいませんでしたね。
 ---------- 眼視では 斜めの光は見えてはいないと思いましたがなあ〜。

 我ながら、これは かなり希有な画像だと、 いささか得意になっている次第--------。

散歩道から

 
 
 真ん中の丸い光は、右上のカーブミラーからの太陽光ですが、このような写真になるとは全く想定外で、予想もしていませんでした。
 手を加えたわけでもなし、これはこれで、かなり珍しい写真と云えませんか?。

 
 白くカーブを描く雲は、そのまま温度の違う空気の動きを忠実に示しているのだ------となるでしょうね。