終戦後まもなく、山形市内にある私の小学校では校庭いっぱいを大豆畑にしました。加えて、ありとあらゆる空き地には 何等かの野菜類の種を植えたのです。各家庭にも呼びかけがあったと記憶しています。(泥棒に盗まれるのは承知の上でした。)
又、私共は“古老”から聞いた食える草を探しに随分と方々歩き回りましたよ。
抱え切れない程摘んで来てはメシと一緒に炊いて食ったのです。ただ、母親にとっては砂落としが大変であった、との事でしたが・・・。
向こうの山も見渡す限りの野原も緑いっぱいの日本で食料危機がある筈はない----と、これは戦中か戦後か、支那人(当時の呼び名)が云っていたとの話を聞いて心強く感じたものでした。緑は日本のタカラ。農民だけのモノではない。住民共通の財産---これが、その支那人が云いたかったポリシーだったのでしょうね。
食いたいモノとして120種類の菓子類の名前が載っていた疎開日記を最近拝見しましたが、半分以上は田舎では食った事のない旨そうな菓子の名でしたね。東京の子供達は、ゼイタクなもんだ。 当時そんな高価な菓子を食っていたとしたらバチが当たっても不思議ではないな、とか不遜!にもそう思ってみたりしたもの・・・。
ヘンなモノと云えば、蚕のマユの中のサナギ、それを茹でて大量に食った記憶。油がのって結構な味でした。
忘れられないのが、セミの足と羽を取って、炙って醤油をつけパリパリと音をたてて食った記憶。これも延べ大量に食いましたよ。そのセミはいくらでも捕まえられたのです。
その気になればいくらでもワイルドになれた時代でした。
------ワイルドでもなくて、今でも食えると思うのですが、どうでしょうか?・・・。
原則として、人間は歴史的に自分の住んでいる20キロ範囲で取れる食物を食ってしっかりと生きて来た、と聞いた事があります。と云っても、地方により、又、時代によって違って来ると思うのですが参考にはなります。
戦中戦後は、大昔に戻り、自分のまわりから牛馬で運べる範囲、つまり20キロ範囲で取れた食物を主として食っていたような気がします。然し、それで餓死は防げたのです。
食えなかったのは、基本として、20キロを越え、遠くから運んで来る食料。それは当然だったと思いますよ。
飽食の時代、あれこれ云わずに、もう一度、あの時代に帰って食の原点に立ってみたい気もします。
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