2011年5月1日日曜日

----貝になりたい。

 
 

 この映画は見たのですが、論評するとなると 今でも ちょっと躊躇する気持ちに襲われますね。大袈裟に申せば自分の人生観に変化を齎した・・・・そんな感じすらした名作だったとも 今でも思っていますが。

 以下 Wikipediaより

 昭和19年、第二次世界大戦中。高知県幡多郡清水で理髪店を営んでいた清水豊松(しみず とよまつ)は、気は弱いが平凡な人柄の人物であった。戦争が激化する中、豊松 にも赤紙が届き、出征することになる。

内地の日高中隊に所属した豊松は、厳しい訓練の日々を送る。ある日、撃墜されたアメリカ軍の戦闘機の搭乗員が大北山山中に降下。軍司令官の矢野中将の「搭乗員を確保、適当(2008年版の映画では「適切」)な処分をせよ!」との命令が、尾上大隊を経て大北山の最寄にいた日高中隊に下り、山中探索の結果、虫の息であった搭乗員を発見。そこで豊松は小隊長に、銃剣でその米兵を刺すよう命じられ、半ば強制的に突進した…!

 終戦後。豊松は理髪店に戻って、いつも通りに仕事をこなしていた。そんなある日、戦犯として特殊警察に逮捕され、東京まで連行される。極東国際軍事裁判条例に基づいて行われたC級裁判の横浜法廷で、捕虜を殺害した捕虜虐待の罪で被告席に立った豊松は「日本の軍隊では、二等兵は牛や馬と同じで、上官の命令に逆らえば命はないんだ」と主張する。実際には、気の小ささから刃が頬を掠っただけで、その時点ですでに捕虜の米兵は息を引き取っていたのだった。しかし「拒否しなかったことは殺す意思があったという証拠だ」というアメリカ流の論理に跳ね返され、絞首刑判決が言い渡される。

 巣鴨プリズンに身を移された豊松は、同様の判決により戦犯とされた人々と過ごし、日々処刑が行われる現実を目のあたりにする。しかし無罪を主張する豊松は同房の囚人たちとともにハリー・S・トルーマン米大統領にあてて減刑の嘆願書を書き続ける。その後、矢野中将が処刑されて以降1年以上巣鴨プリズンでは誰も処刑された者はなく、やがてアメリカと結ばれる講和条約により、皆が釈放されるものと信じていた。

 春を迎えたある朝、チェンジブロック(房の移動)が言い渡され、減刑されるものと喜ぶ豊松であったが、連れて行かれた先で告げられたのは死刑執行の宣告だった…。

 そして豊松は妻と子供に宛てて遺書を書き始める。

「せめて生まれ代わることが出来るのなら……
いゝえ、お父さんは生れ代わっても、もう人間になんかなりたくありません。
人間なんて厭だ。牛か馬の方がいゝ。
……いや牛や馬ならまた人間にひどい目にあわされる。
どうしても生まれ代わらなければならないのなら……いっそ深い海の底の貝にでも……

 そうだ、貝がいゝ
貝だったら、深い海の底の岩にへばりついているから、何の心配もありません。
兵隊にとられることもない。戦争もない。
房江や、健一のことを心配することもない。
どうしても生まれ代わらなければならないのなら、私は貝になりたい……」

 書き終えた後、絞首台に上がり、刑が執行される。

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 蛇足
 一生かけて口をつむぐ、となると通常であれば「石になりたい」と表現すると考えますね。それが「貝」とあるので、理屈では納得出来ても、どこか異質感を覚えたもの。

 「貝に...」この云々は、曰く因縁の言葉として 昔から存在する言葉なのか、ちょっと疑問に思いましたが。

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