小学校時代、戦争も激しくなりかかって来た頃、東京(中央線 荻窪駅前 桃井第三小学校)から疎開して来た女生徒がいました。それは5年生の時、昭和19年の春だったでしょうか。
その子は、最初に入って来た疎開児童でした。
よく出来た女生徒であったのは それとしても、彼女が話す東京弁には、私どもは目を白黒にして 只 々 あわわ あわわ---と文字通り泡を吹くほかありませんでしたなあ〜〜。
その後、当時の事ですから、彼女を筆頭に、何人かの疎開児童が入ったり出たりしたのですが、残念ながら正確な記憶は残っていません。
ともあれ、その彼女は、終戦後しばらくして帰京。
現在は関西地区に在住。お付き合いとしては賀状を頂いている程度。それにしても小学校時代からですからチョー長くなりました。
最近 中央線沿線の探訪をした折り、いろいろそのへんを歩いてみて知ったのですが、その近くに、近衛文麿の館 “ 荻外荘 「テキガイソウ?」” がありましたね。
以外なモノを探し当ててビックリしました。
新聞切り抜きをやっていて、改めて知ったのですが、近衛文麿が自殺したのもここでした。
載せた写真は 、近衛公自殺の 当時の新聞切り抜き と 荻外荘 。
「荻外荘 」は 「てきがいそう」と読みます。
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