今日、7月7日は 盧溝橋事件 が勃発した日、つまり支那事変が始まった日でした。
そんな日は覚えなくてもよさそうなのですが、7月7日、この語呂の良さから忘れられない日になっていましたね。記憶では、七夕 より こちらの方が先に出て来るくらいかな。
とにかく、一発の銃弾が その引き金になっていたとは よく聞かされたハナシでした。
------------- 以下Wikipediaより
盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)は、1937年(昭和12年)7月7日に北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である[3]。中国では一般的に七七事変と呼ばれる[4]。この事件は日中戦争(支那事変)直接の導火線となった[5]。
1発目を撃った人物 [編集]
日本側研究者の見解は、「中国側第二十九軍の偶発的射撃」ということで、概ねの一致を見ている[51][52]。中国側研究者は「日本軍の陰謀」説を、また、日本側研究者の一部には「中国共産党の陰謀」説を唱える論者も存在するが、いずれも大勢とはなっていない。
「中国共産党陰謀説」の有力な根拠としてあげられているのは、葛西純一が、中国共産党の兵士向けパンフレットに盧溝橋事件が劉少奇の指示で行われたと書いてあるのを見た、と証言していることであるが、葛西が現物を示していないことから、事実として確定しているとはいえないとの見方が大勢である[53]。当時紅軍の北方機関長として北京に居た劉少奇が、青年共産党員や精華大学の学生らをけしかけ、宋哲元の部下の第二十九軍下級幹部を煽動して日本軍へ発砲させたもので、昭和29年、中共が自ら発表した[54]。
一方でサーチナ(2009年5月15日付)によると、広東省の地元紙・羊城晩報に掲載された論説で「中国共産党陰謀説」を「荒唐無稽な説」としながらも、「劉少奇が盧溝橋事件を起こした」「劉少奇が盧溝橋で、日本軍と戦った」との記述が、共産党支配区域で配られた「戦士政治読本」と言うパンフレットに確かに書かれているとし、その理由としては「われわれ中国人の伝統的ないい加減さ」により書かれたものであると論じていることが伝えられた[55]。
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いずれにせよ、開戦のキッカケが、どちら側にあったのか ---------- とかなると、いろんな説が大量に出て来るのは、ある面では避けられないのかも知れませんね。
それにしても、その時の一発が、やがて大東亜戦争に迄 発展してしまうのですから恐ろしい事です。
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