従って、終戦の新聞も勿論当日ではなく、遅れて配達された筈ですが、はっきりしません。
なお、配達は、当時の山形市の場合は、すべて女性、それも それなりの小母さんでした。
加えて、配達しながら 我が家などでは、一服してお茶を飲んだりしての配達だったので、配達が完了するのは夕方近くだったのではありませんか?。
その状態は、戦時中よりも、むしろ戦後の方が著しく、連日の配達がうまくいかず、後日数日分纏めて配達されるのもマレでは無かった記憶もあります。
戦災には無縁だった山形市ですら、そうだったので、焼け野原の都市での配達はどうされていたのでしょうね。
勿論、当時は夕刊はありませんでした。
まあ〜屈強なオトコ達は戦争に取られてしまって、残されていたのは女性が主、とあれば、それもヤムを得なかったでしょう、そんな時代でした。
救われた面があったとしたら、当時の新聞はペラペラの一枚新聞でしたから、何十軒分であれ、それ程の重さにはならなかった、と、それがあったかも知れませんね。
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