2011年2月10日木曜日

プリンスオブウエールズ撃沈

 
 

 
 
 太平洋戦争開戦直後の1941年12月10日、日本軍の上陸を阻止するため出撃したプリンス・オブ・ウェールズは日本海軍航空機(九六式陸攻一式陸攻)の雷撃及び爆撃により、僚艦レパルスと共にマレー沖にて沈没した(マレー沖海戦)。
 第2波空襲開始早々に、推進軸付近に命中した魚雷により推進軸が捩れ曲がり、回転するタービン・シャフトの先端が隔壁を連打して破壊した。この致命的な損傷により大浸水を生じ、同時に操舵不能となり、冠水により発電機が故障したため電力も落ちて後部にある4基の13.3cm連装両用砲と舵機が使用不能になった。速力が低下し、傾斜して両用砲の運用が困難になり、舵も効かなくなった同艦は第3次空襲で相次いで魚雷を受け、回避運動も対空射撃もままならなくなった状態で水平爆撃を受け500キロ爆弾が命中、合計6本の魚雷と1発の爆弾を喫した。最終的にフィリップス中将とリーチ艦長を含む数百人が艦と運命を共にした。
 これ以前のタラント真珠湾では「停泊中」の戦艦が航空攻撃により沈められたが、港に停泊中を奇襲され充分な対応ができないうちに被害を受けた結果であった。しかし、マレー沖では充分な装備を持ち、万全の準備を行っていた「行動中」の戦艦が航空機の攻撃だけで撃沈された。対空砲多数を装備した新式戦艦でも、航空機の攻撃には勝てない事が明らかになった。また、戦略的にも、ほぼ無傷で最大の障害と見られた東洋艦隊主力が壊滅したことは、日本軍のこの方面における作戦展開で大きな意味があった。

 この撃沈の報告を聞いた首相チャーチルは、「あの艦が!」と絶句し、「戦争全体で(その報告以外、)私に直接的な衝撃を与えたことはなかった」と著書の第二次世界大戦回顧録で語っている。

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 これは、当時、大戦果として大きくとりあげられましたね。その時描かれた 松添画伯の絵が一世を風靡しました。 この私もトータルとすれば、その絵を数十枚は描いたと思いますよ。

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