2012年6月16日土曜日

マッカーサー



「マッカーサー」とは本当は「松かさ」から取り入れた名前・・・当時 そう云った姉の言葉を信じましたね。
日本語が どうしてアチラの名前になったのか、それにはイキサツがあるのかどうか・・・とか とか のムズカシイ事は さておいて、暫くの間 信じ込んでいましたよ〜。

 ともあれ、マッカーサー は、戦後、天皇陛下よりも偉い 全知全能の神様 の時代。大変な時代でした。
「マッカーサーの命により この芝生に入るべからず。」とかの、立て札も立った時代ですよ。

 それが一転して ひっくり返ったのは「更迭」の文字が紙上を賑わした時、それは朝鮮戦争で、北朝鮮まで攻め入るべし との彼の判断に待ったをかけたトルーマン大統領に一言でした。

 以下参照「Wikipediaより引用」
[編集] 更迭
〜〜(略)1951年になると、共産軍の反抗が本格化し、再び戦線を押し戻すようになった。
このような状況を打開することを目的に、中華人民共和国領となった旧満州に対する空爆、さらには核攻撃の必要性を主張してトルーマン大統領と対立した。
4月11日、マッカーサーは大統領から更迭を発令された。マッカーサーはそのとき愛妻のジーンと共に、来日したウォーレン・マグナソン上院議員とノースウエスト航空のスターンズ社長と会食をしていた。
副官のシドニー・ハフ大佐は、立ち上がったジーン夫人に解任のニュースを知らせ、「至急報」と書かれた茶封筒を渡し、夫人はまた、その茶封筒をマッカーサーに黙って渡した。
内容を読み終えたマッカーサーはしばらく沈黙していたが、やがて夫人に向かってこう言ったと伝えられている。「ジーン、これで帰れるよ」。

 マッカーサーの更迭については、日本の非武装化推進などが当時のアメリカ軍部からも異論が有ったためとも言われている。

オマル・ブラッドリー統合参謀本部議長は「マッカーサー解任は当然である」と主張した。(以下 略)

因に、その時の「更迭」が国語の試験に出ましたねえ。
推測ではクラス全員 読めなかったし、 まして意味となったら更に理解出来なかったと思いますよ。

私はどうしたか?「コウソウ」と書いた記憶がります。
いい加減な読みですから当然ながら意味も不明のままの提出でした。(「更迭」は「コウテツ」ですよ。)

 それ以来、マッカーサーは日本では神樣の位置からズリ落ちて「只の人」に生まれ変わってオシマイになりました。

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