2012年7月17日火曜日

軍人勅諭

教育勅語は、戦争の大半を小学校で過ごした私等には随分と「お世話」になった勅語でした。


今回はその勅語を真っ先に紹介すべきなのでしょうが、敢えてそれは省いて「軍人に与える勅語」としての「軍人勅諭」を載せてみました。


但し、そう云っても、全文を暗記させるとか、そこまでは発展しないうちに終戦を迎えましたが------まあ、ラッキーでしたね〜。 私共の役目は五ケ条の項目だけを暗記すること。暗記して暗誦したあとに先生の内容説明が行われました。
 五ケ条の項目とは下記のような項目です。

(ひとつ)軍人は忠節を尽すを本分とすべし。
(ひとつ)軍人は礼儀を正しくすべし。
(ひとつ)軍事は武勇を尚(とうと)ぶべし。
(ひとつ)軍人は信義を重んすへし。
(ひとつ)軍人は質素を旨とすへし。


 下に軍人勅諭を転記してみましたので〜。
 実は、これまでいろんな文面を転記してきましたが、今回のこの軍人勅諭ほど厄介な転記はありませんでした。なにせ漢字が多いのに加えて理解に窮するような難しい文字が出て来ます。

 ホントに参りましたよ〜。最後の方は「振り仮名」は省略のやむなきに至りました。
 苦労して転記しましたので、なにとぞパラパラで結構ですから目を通して見て下さい。


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.                   軍人勅諭
我国の軍隊は、世々天皇の統率し給ふ所にぞある。
 昔神武天皇躬(み)づから大伴物部(おおとももののべ)の兵(つわもの)どもを率ゐ、中国(なかつくに)のまつろはぬものどもを討ち平げ給ひ、高御座(たかみくら)に即(つ)かせられて、天下(あめのした)しろしめし給ひしより、二千五百余年を経ぬ。
 此間(このあいだ)世の様の移り換るに随(したがい)ひて兵制(へいせい)の沿革も亦屡(またしばしば)なりき。
 古(いにしえ)は天皇躬(み)づから軍隊を率ゐ給ふ御制(おんおきて)にて、時ありては皇后皇太子の代(かわ)らせ給ふこともありつねど、大凡(おおよそ)兵権(へいけん)を臣下に委(ゆだ)ね給ふことはなかりき。
 中世(なかつよ)に至りて、文武(ぶんぶ)の制度唐国風(からくにふり)に倣(なら)はせ給ひ、六衛府(ろくえふ)を置き、左右馬寮(さうめりゃう)を建て、防人(さきもり)など設けられしかば、兵制は整(ととの)ひたれども、打続ける昇平(しょうへい)に狃(な)れて、朝廷の政務も漸文弱(ようやくぶんじゃく)に流れければ、兵農(へいのう)おのづから二(ふたつ)に分れ、古(いにしえ)の徴兵(ちょうへい)はいつともなく壮兵(そうへい)の姿に変り、遂に武士となり、兵馬の権は、一向(ひたすら)に其(その)武士どもの棟梁(とうりょう)たる者に帰(き)し、世の乱(みだれ)と共に政治の大権も亦其手(またそのて)に落ち、凡(およそ)七百年の間(あいだ)武家の政治とはなりぬ。世の様の移り換りて斯(かく)なれるは、人力(ひとのちから)もて挽回(ひきかえ)すべきにあらづとはいひながら、且(かつ)は我(わが)国体(こくたい)に戻(もと)り、且は我祖宗(わがそそう)の御制(おんおきて)に背(そむ)き奉(たてまつ)り、浅間(あさま)しき次第(しだい)なりき。
 降(くだ)りて弘化嘉詠永(こうかかえい)の頃より、徳川の幕府其政衰(そのまつりごとおとろ)へ、剰(まつさえ)外国の事ども起こりて、其侮(そのあなどり)をも受けぬべき勢(いきおい)に迫りければ、朕(ちん)が皇祖仁孝天皇(おおじのみことにんこうてんのう)、皇孝孝明天皇(ちちのみことこうめいてんのう)、いたく宸襟(しんきん)を悩(なやま)し給ひしこそ、忝(かたじけな)くも又かしこけれ。
 然るに、朕幼(いとけなし)くして天津日嗣(あまつひつぎ)を受けし初(はじめ)、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)其政権を返上し、大名小名(だいみょうしょうみょう)其版籍(はんせき)を奉還(ほうかん)し、年を経(へ)ずして海内一統(かいだいいっとう)の世となり、古(いにしえ)の制度に復しぬ。是文武(これぶんぶ)の忠臣良弼(りょうひつ)ありて、朕を輔翼(ほよく)せる功績(いさお)なり。
 歴世(れきせい)祖宗(そそう)の専蒼生(もっぱらそうせい)を憐(あわれ)み給ひし御遺沢(いたく)なりといえども、併(しかしながら)我臣民の其心(そのこころ)み順逆(じゅんぎゃく)の理(ことわり)を弁(わきま)へ、大儀の重きを知れるが故(ゆえ)にこそあれ。
 されば此時(このとき)に於(おい)て、兵制を更(あらた)め我国の光を輝(かがやか)さんと思ひ、此(この)十五年が程(ほど)に、陸海軍の制をば、今の様に建定(たてさだ)めぬ。夫兵馬(そのへいば)の大権(たいけん)は、朕が統(す)ぶる所なれば、其司々(そのつかさつかさ)をこそ臣下には任(まか)すなれ。
 其大綱(そのたいこう)は朕親之(ちんみずからこれ)を撹(と)り、肯(あ)て臣下に委(ゆだ)ぬべきものにあらず。
 子々孫々(ししそんそん)に至るまで篤(あつ)くこの旨(むね)を伝へ、天子は文武の大権を掌握するの儀を存(ぞん)して再(ふたたび)中世以降の如(ごと)き失体(しったい)なからんことを望(のぞ)むなり。朕は汝等(なんじら)軍人の大元帥(だいげんすい)なるぞ。
 されば朕は汝等を股肱(ここう)と頼み、汝等は朕を頭首(とうしゅ)と仰ぎてぞ、其親(そのしたしみ)は特に深かるべき。
 朕が国家を保護して、上天(しょうてん)の恵(めぐみ)に応じ祖宗の恩に報いまいらする事を得るも得ざるも、汝等軍人が其職を尽すと尽さざるとに由(よ)るぞかし。
 我国の稜威(みいず)振(ふ)はざることあらば、汝等能(よ)く朕と其憂(そのうれい)を共にせよ。
 我武惟揚(わがぶこれあが)りて其栄(そのえい)を輝(かがやか)さば、朕汝等と其誉(そのほまれ)を偕(とも)にすべし。
 汝等皆其職を守り、朕と一心(ひとつごころ)になりて力を国家の保護に尽さば、我国の蒼生は永く太平の福(さいわい)を受け、我国の威烈(いれつ)は大いに世界の光華(こうか)となりぬべし。
 朕斯くも深く汝等軍人に望むなれば、猶訓諭(なおおしえさと)すべき事こそあれ。
 いでや之を左(さ)に述べむ。

一(ひとつ)軍人は忠節を尽すを本分とすべし。
 
凡(およそ)生を我国に稟(う)くるもの、誰かは国に報ゆるの心なかるべき。
 況(ま)して軍人たらん者は、此心の固(かた)からでは物の用に立ち得べしとも思はれず。
 軍人にして報国の心堅固ならざるは、如何程技芸に熟し学術に長ずるも、猶寓人(なおぐうじん)にひとしかるべし。
 其隊伍も整い節制も正しくとも、忠節を存せざる軍隊は、事に臨みて烏合(うごう)の衆に同じかるべし。
 抑(そもそも)国家を保護し国権を維持(ゆいじ)するは兵力に在(あ)れば、兵力の消長は是(これ)国運の盛衰なることを弁(わきま)へ、世論(せいろん)に惑わず政治に拘らず、只々一途(いちず)に己(おのれ)が本分の忠節を守り、義は山獄よりも重く、
死は鴻毛(こうもう)よりも軽しと覚悟せよ。
 其操(そのみさお)を破りて不覚を取り、汚名を受くるなかれ。

一 軍人は礼儀を正しくすべし。
 凡軍人には、上元帥(かみげんすい)より下一卒(しもいっそつ)に至るまで、其間には官職の階級ありて統属するのみならず、同列同級とても停年に新旧あらば、新任の者は旧任のものに服従すべきものぞ。
 下級のものは上官の命を承ること、実は直に朕が命を承る義なりと心得よ。
 己が隷属する所にあらずとも、上級の者は勿論、停年の己より旧きものに対しては、総て敬礼を尽すべし。
 又上級の者は下級の者に向ひ、聊(いささ)かも軽侮驕傲(けいぶきょうごう)の振舞あるべからず。
 公務のために威厳を主とする時は格別なれども、其外は務めて懇(ねんごろ)に取扱ひ、慈愛を専一(せんいち)と心掛け、上下一致して王時(おうじ)に勤労せよ。
 若(もし)軍人たるものにして礼儀を紊(みだ)り、上(かみ)を敬はず下(しも)を恵まずして、一致の和諧(わかい)を失ひたらんには、啻(ただ)に軍隊の蠹毒(とどく)たるのみかは、国家の為にもゆるし難き罪人なるべし。

一 軍事は武勇を尚(とうと)ぶべし。
 夫(それ)武勇は、我国にては、古(いにしえ)よりいとも貴(とうと)べる所なれば、我国の臣民たらんもの、武勇なくては叶ふまじ。
 況(ま)して軍人は戦(たたかい)に臨み敵に当たるの職なれば、片時も武勇を忘れてよかるべきか。
 さはあれ、武勇には大勇あり、小勇ありて同じからず。血気にはやり粗暴の振舞なとせんは武勇とは謂ひ難し軍人たらむものは常に能く義理を弁へ能く胆力を練り思慮を殫して事を謀るへし小敵たりとも侮らす大敵たりとも懼れす己か武職を尽さむこそ誠の大勇にはあれされは武勇を尚ふものは常々人に接るには温和を第一とし諸人の愛敬を得むと心掛けよ由なき勇を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて豺狼なとの如く思ひなむ心すへきことにこそ。

一、軍人は信義を重んすへし。
 
凡信義を守ること常の道にはあれとわきて軍人は信義なくては一日も隊伍の中に交りてあらんこと難かるへし信とは己か言を践行ひ義とは己か分を尽すをいふなりされは信義を尽さむと思はヽ始より其事の成し得へきか得へからさるかを審に思考すへし朧気なる事を仮初に諾ひてよしなき関係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは進退谷りて身の措き所に苦むことあり悔ゆとも其詮なし始に能〃事の順逆を弁へ理非を考へ其言は所詮践むへからすと知り其義はとても守るへからすと悟りなは速に止るこそよけれ古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に踏迷ひて私情の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍に遭ひ身を滅し屍の上の汚名を後世まて遺せること其例尠からぬものを深く警めてやはあるへき
一、軍人は質素を旨とすへし。
 
凡質素を旨とせされは文弱に流れ軽薄に趨り驕奢華靡の風を好み遂には貧汚に陥りて志も無下に賤くなり節操も武勇も其甲斐なく世人に爪はしきせらるヽ迄に至りぬへし其身生涯の不幸なりといふも中〃愚なり此風一たひ軍人の間に起りては彼の伝染病の如く蔓延し士風も兵気も頓に衰へぬへきこと明なり朕深く之を懼れて曩に免黜条例を施行し略此事を誠め置きつれと猶も其悪習の出んことを憂ひて心安からねは故に又之を訓ふるそかし汝等軍人ゆめ此訓誡を等間にな思ひそ
 右の五ケ条は軍人たらんもの暫も忽にすへからすさて之を行はんには一の誠心こそ大切なれ抑此五ケ条は我軍人の精神にして一の誠心は又五ケ
条の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言も善行も皆うはへの装飾にて何の用にか立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし況してや此五
ケ条は天地の公道人倫の常経なり行ひ易く守り易し汝等軍人能く朕か訓に遵ひて此道を守り行ひ国に報ゆるの努を尽さは日本国の蒼生挙りて之
を悦ひなん朕一人の懌のみならんや

 これを作ったのは西周(にしあまね)だとの事。よくぞまあ作って下さったもんだ、と感心の極みです。「オウム真理教」どころではありません。天皇は文字通り「カミサマ」だったのですから、天皇のお言葉は絶対でした。天皇への忠義は山よりも重く、我々の命は髪の毛よりも軽い命だったのです。
 それとは別に、文章が難しい分だけ、得体の知れない有り難味があったのかも知れませんね。
 -----それにしても、この全文を暗記するのが兵士の絶対条件だったのですから兵隊サンは大変だったなあ---と思うのみです。

 最初の文章は、これまでの日本史についていろいろ書いてありますが、単に文脈を拾ってコトの顛末を要約すれば、中身は至って簡単な内容になっています。文章をやたら勿体つけて難解にする事で有り難味を重増しようとしたのでしょうか。その魂胆が鼻につきます。

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