昭和27年に描いた-----とあります。結構 大人(おとな)になってからのようで〜。
右側は土手で、内部は山形城趾ですが、当時は、それらしいモノは何もなかったですね。
戦前から終戦迄は、帝国陸軍 山形聯隊で占められていました。
戦後はしばらく進駐軍と、彼等の宿舎。
いずれも一般人は 立入禁止。
現在は、勿論 立ち入り自由で、再現された城の適当な部分箇所とか、かっての屋敷などに加えて、野球場を含めて、それなりのレジャーランド?に変容していると思いますが〜。
鉄路の方では------ 。
向かって左は 奥羽本線、右は、左沢(あてらざわ)線 が走る鉄路(共々単線)。
これらの様々は、現在は どうか?。線路の、状況、役目、などには違いはないとしても、当然ながら、周囲の状況は、このスケッチから更に違った風景になっているでしょう----ただ、山形に帰る事もないので、ホント、どうなっているのでしょうかね。
土手の上には、桜の木が並んでいるのですが、それはそのまま維持されている筈で、その他の土手に繁茂している いろんな樹々の方は取り払われてキレイになっていると思われますね。
右下の小さな写真は 戦後間もなくの写真 。水量が貧弱なのが違っているようで〜。
「汽車みち」とは、汽車が走る線路が敷かれている箇所 の当地の呼称。
※ ただ、煙を吐いて走る蒸気機関車は、現在では、どこであれ、全く見られなくなって淋しい限り。
--------- 思えば、それも懐かしい呼称でしたなア〜。
※ ただ、煙を吐いて走る蒸気機関車は、現在では、どこであれ、全く見られなくなって淋しい限り。
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