千葉県佐倉市に国立の博物館がある、とは知りませんでした。
とにかく行ってみようとなって家族で行ったのが2001年8月26日。やはり驚きました。国立の名に恥じない豪華絢爛たる内容です。
この博物館だけの特徴であるとは思いませんが、最近の、この種の展示場で気がつく事に、展示品をパネルに書いた文字ではなく、現物に近い模型、ジオラマ、音響、動きのあるメカニズム、等々で、感覚重視の意図がはっきり読み取れます。結構な事だと思います。然し、その分大変なコストと維持費がかかる筈、とご同情申し上げたい気持ちでした。
展示内容は、縄文時代から近代まで、歴史博物館ですから当然の順序で進行しています。その中で特別に注目した箇所はどこか、と云われても分りませんね。広いのと、資料豊富で、どこがどうなのか、全体把握が出来ずに終わったような感じでした。
強いて興味があった箇所となると、やはり古代でした。
古代には何故興味があるか----それは、サイトの何箇所かに書いてありますが、縄文時代、弥生時代、古墳時代、そして飛鳥奈良時代、と続く中で、弥生後期から古墳時代にかけてがあまりにも考察・考証が抜け落ちている、というこの学界での不思議な現実にあります。
弥生後期、それは卑弥呼の時代ですが、ヨーロッパでは皇帝ネロの時代、そしてポンペイの時代と重なっています。中国では三国志の時代です。東西共々当時の生活水準は現代と見間違える程の高水準にありました。然るに日本では茅葺きの掘立て小屋に女王が住んでいる、とする推測では余りにも発想が貧弱過ぎると思われるのです。
弥生時代の水田は最初から完成された姿で発掘されています。この事は水田農耕が完成された姿で中国・朝鮮から入って来た証拠です。それならば、住居や他の建造物(豪華な宮殿や居城)に於いても、やはり完成された姿で輸入!!されて然るべきだと思うのですがいかがでしょうか。当時の日本は隔絶された国ではありませんでした。中国、朝鮮との間にはかなり濃密な交易関係が成立していたのです。日本人の知的レベルは遺伝的にも別に劣っていたわけではありません。
縄文、弥生、古墳、と続く歴史は原始時代そのものです。弥生の最後は西暦100年頃、古墳最後は600年頃です。とにかく「原始時代」とされてあります。それが7世紀となると、いきなり法隆寺が出現します。掘立て小屋から法隆寺へ、歴史は大きくジャンプするのですが、そんな馬鹿な事はありません。
女王卑弥呼は超デラックスな大宮殿に住んでいたのですよ。そのくらいの規模の文化水準を想定しておかないと法隆寺建立には結び付かないのですよ。
この博物館での陳列は----旧石器時代の日本----縄文時代の日本---縄文土器の変遷---縄文時代の村---縄文人の家族---日本人の系譜---稲作の系譜---稲魂をもたらす鳥---青銅製祭器の埋納---箸墓古墳---東国のムラ---東国の豪族の居舘---(そして)---宮中枢部の変遷と復元模型(平城京中枢部の復元模型)-------と、続きます。このうち「東国の豪族の居舘」は竪穴住居が発達した大型掘立小屋です。時代は6世紀初頭とあります。この居舘は群馬県にあるもので、当時であっても田舎なので、それをもってその時代の建築とは言えません。
とにかく、これでは中国の宮殿建築を模した平城京が700年代中頃にいきなり出て来る時代背景が理解出来ません。
但し、一般的には古代に対する興味よりは、近代から現代にかけての展示の方が面白いかもしれませんね。この博物館は巨大なので、古代からスタートすると途中で草臥れて近代以降なんてどうでも良くなってしまいがちです。むしろ現代から古代へ逆コースで見学して行った方がベストかも知れません。平安、奈良、古代、等、終わりに近いそのあたりは適当に見てオワリにしても悔いは残らないでしょう。
なお、小中学校の児童生徒向けに、問題集が渡されます。展示品を見ながら答えを書いていく方式です。タメになります。
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