現在の、靖国論、防衛論、その他、いろんな国家的な命題に対する日本人の考え方には独特の情緒的なウムニャムニャが必ずや ついてまわる----そしてそれが何かの拍子に一斉に変わり、予想外の結果を生む、と、これを常に頭に入れて置く必要があると云う事でしょうか。---理屈通りには決して進まないケースが多い、と、まあ、情けないのかどうか分かりませんが、これまで生きて来た自分の歴史では それらが余りにも多かったような気がしたものですから・・・・。
終戦 直前に近い 昭和20年8月11日の新聞(毎日)に載った連合国側からの降伏勧告書「ポツダム宣言 」に対する見出しを読むと、以下のように書かれてあります。
「笑止.対日降伏条件 老獪な謀略 戦争完遂に邁進、帝国政府問題とせず。」
と、このように新聞では断固たる態度を示してあります。
然し、ともあれ日本は連合国に降伏し、やがて全国に進駐軍がやって来る事になりました。------我々はどうすればよいのか?。
-------ホントにどうすればよいのか?。
・・・その時に必要な心構えが新聞に載りました。
中身は、もし、米兵から無理な事を要求されたら大声を挙げて助けを求め、そして この紙片を見せなさい・・・・
---との注釈で新聞に横文字の文章が出たのです。、
その、英作文の善し悪しについてはまずとして、新聞社には対応出来るアルフアベットの活字が無かった事が分かります。
どうやって作ったのか、according to などは、なんと手書きで書かれてありましたね!!。
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それから 数日後だったか、それとは別に 一般人に対する対応策として下記のような「おふれ書き」も出されました。
1、各人はなるべく外国兵士と接触しないこと。
2、彼等は「記念品漁り」をやるかも知れない。貴重品など持ち歩かぬように、また隠しておくように。
3、もし身のまわりの品物が奪はれそうだったら敢然として断ること。外人のように日本人は個人の権利を主張しないので彼等になめられるのだ。拳銃などは「おどか し」に過ぎないから恐れず頑張ること。
4、彼等を見ると自転車を投げ出して逃げたり、かくれたり、徒におそれるのは彼等を増長させるもとだ。堂々と行 動しよう。
5、彼等が理不尽な行為をしたら先ず拒否し、大声で騒ぐこと。
6、女のだらしない服装は必ず彼等を挑発する。服装は整然とした地味、質素なものにすること。
7、銭湯で裸の女が通行中の彼等を見たり「しどけない」格好の女が窓からのぞいたりして被害を受けてゐる、注すること。
8、女の一人歩きをやめる。夜の外出も厳禁。
9、彼等は二~三人宛自動車で街なかや街道を走り廻り路上の女を見ると声をかけて呼びかけたり笑ひかけたりするが、それに応じて 手を揚げたり笑ったりすると誘 惑を承諾したものと判断、自動車で連れていく。笑ひ返したり手を揚げたりしない で冷然としてゐなければならない。
10、日本人は外国人が珍しいためか路上でキョロキョロして物見高い態度をするが、外人には目も触れないといふ態度でゐること。
11、女子供のみの家は昼間でも戸締を厳重にして外から見えぬやうにすること。彼等も鍵を破った罪は重く罰せられる。もしその鍵が破られさうだったら大声を上げて救ひを求めるか男のゐる処に逃げること。
12、隣組毎に自衛組織を作りお互に協力して警戒し、一人に事故が起こりかけたら近所の者が直ぐ集まってワイワイ騒いで制止するやう申合せ平素から訓練すること。
13、女に対する暴行は彼等の軍律でも銃殺だ。彼等がさうした行為に出たら死を決して抵抗する。身を守るために相に危害を加え たのは正当防衛で許される。敢然と反抗すること。
14、今迄事故があっても証拠が薄弱で抗議するのに困ってゐる。何か不法行為が行われた時は、場所、日時、相手の 服装、特徴、階級等、証拠になるものを確実につかみ速やかに警察に届けること。
15、外国人が通る場合女の人が後を振りかへったり笑ったり、手を上げたり窓からのぞいたりしない事、売娼婦と間違はれる。
(当時の仮名づかいのまま)
日本より先に手を上げたイタリアでの徹底的な民衆の抵抗----レジスタンス、これなどもアタマにあったでしょうね。
----- これが当時の世相の断片です--どうでしょうか、ずいぶんと進駐軍を警戒していた事が如実に分かります。
「マッカーサー万歳」が始まる少し前の事でした。
そして、それから1ヶ月近い9月13日の新聞では・・。
(もうマッカーサー万歳が始まっていました。)
「(アメリカ人は)話せば判る教養人。嬉しがるキモノ。日本礼儀を知りたがる。」
と書いてあります。そこに見られる日本人の意識の落差、節操のなさを どう判断すべきかな・・・と、云う事です。
当然ながら進駐軍に対するヨイショもあろうかと察しますが、そうとは思えません。今でもホンネだったと思いますよ。
然し、その落差に最も驚いたのが 多分 進駐軍だったでしょうね。沖縄戦などで経験した 最悪の危険を想定しながら、こわごわ?と上陸して来た筈ですよ。
------------ それが、 降伏した日本と云え その国の民衆から、間もなく あれ程 大歓迎されるとは夢にも思わなかったでしょう。大半の日本人が「アメリカかぶれ」に嵌ってしまっているのを見て、なんだこりゃ??と理解に苦しんだのではないかなあ~~?。
進駐軍にとっては、大歓迎は想定外 --------- それよりも 特攻機による自爆攻撃、少人数であれ突撃隊の乱入---etc・・・それ位の抵抗はある筈だと あらかじめ読んでいたと思いますよ。
然し、それらは 全くありませんでした。
日本人の、この、一律に、一斉に変わってしまう集団的現象を恐しいと思う時があります。
ともあれ、アッと云う間に 巷(ちまた)には「マッカーサー万歳!!」の<大合唱>が始まったのですから・・・・---- と云って、当時の私達には それまで 厭戦、反戦、平和待望、の気運などは、これっぽちもなかったのです。米軍が上陸して来たら、最後の一人まで、徹底抗戦、玉砕覚悟で頑張る心構えだったのです----------- 仮に 白旗を掲げたところで、皆殺しに遭うのだ、 と誰もが信じていましたからね。
それが、こんなに鮮やかにひっくり返ってよいのだろうかと、誰だって不思議に思っていた筈ですが、 誰もが平気な顔をしていましたね。当時 子供だった私共も当然ながら 大人に右倣えでした。
皆殺しが ないと判断したからか?...いや、どう考えても そうではなかったなあ~~。
それでは なんだったのだろうか? ---- 判りませんね。
その後、マッカーサーの許には数千通の感謝の手紙が全国から寄せられたとあります。
やがて、そのマッカーサーが更迭されてアメリカの上院で証言したのが 有名な「日本人は12才だ・・・」との名言でした。
因みに、米国人は「大人」、ドイツ人は「青年」---そして 日本人は「12才!」、 ...これでしたよ。
日本人は あのマッカーサーから完全に 見くびられていたのです。
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以上、自虐的に思える文面でご免なさい。然し、あの頃を知る者にとっては 身につまされる記憶かと思いますが?。
※ 因に、現在の、靖国論、防衛論、その他、いろんな国家的な命題に対する日本人の考え方には独特の情緒的なウムニャムニャが必ずや ついてまわる----そしてそれが何かの拍子に一斉に変わり、予想外の結果を生む、と、これを常に頭に入れて置く必要があると云う事でしょうか。---------- 理屈通りには決して進まないケースが多い、と、まあ、情けないのかどうか分かりませんが、これまで生きて来た自分の歴史では それらが余りにも多かったような気がしたものですから・・・・。
載せたのは、終戦の日から、日本人の変節?の頃迄の新聞記事からでした。
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