2010年7月24日土曜日

爆撃を受けなかった山形市

 以下、私のHPからです。


 山形市は戦時中爆撃を受けなかった数少ない県庁所在地でした。但し、それは結果論であって、当然ながら、当時はいずれ空爆は必至だと思われていました。従って、市民一同 訓練には怠りなく、連日のように かなり厳しく行われていましたよ。載せた写真は その時に備えてのの防火訓練の記録写真です。(その殆どが女性達。)

 加えて、20年夏近くなると、そのような訓練では被害を食い止められないとの視点から、場所に応じて住民を立ち退かせて、古い建物、茅葺きの燃え易い建物 等の強制的な破壊工事が始められました。爆撃を受けた際の類焼拡大を防ぐための方法として、やむを得ない選択だったのでしょう。

 一方、昭和20年の七月末頃となると、小学校が夏休みとなると同時に、完全閉鎖となり、児童達に対しては可能な限り市街地から遠くに退避するよう指示がありました。
 児童の中には東京方面からの疎開児童、加えて同じ集団疎開組、それらが含まれていましたが、いずれも二次疎開を余儀無くされ、更なる山奥へと散って行きましたね。

 広島から疎開していたMさん一家は、落ち延びる先がなく、一家でリヤカーに所帯道具を積んで 蔵王温泉まで当ても無く出向いて、ともかく空っぽの温泉旅館に泊めてもらったとの事。然し、リヤカーを引いて温泉まで、と云っても大変な距離ですよ。そこを母親と子供二人、それも真夏のカンカン照りの中、加えて、延々と続く上り道・・・よくぞ行ったもんだと、後日感動して聞きましたね。

 我が家ではどうしていたか、小学生だった私は祖母と共に市から40キロ程離れた 米沢市郊外の叔父の家に避難。何の問題もなし。

 勿論、その間 山形市は、爆撃も受けず、市民には犠牲者も出ず、いろいろと ガマンは要求されても 危険を回避出来たわけですから、すべてに於てラッキーだったと申すほかありませんね。

 敵は何故山形市を爆撃しなかったのか。それは爆撃によって山形市に与える損害よりは投下する爆弾の方が高価であった・・・とかの珍説?も随分聞かされたもの -----でも、それも満更ウソでもないかも と思ったのは後年になってからの事でしたが。
 
 何が救いになるのか分りませんね。つまり、逆説かも知れませんが、市民こぞっての貧乏こそが身を救ったのだとも言えない事も無い、とも考えた次第でした。

・・・・以上、戦時中 最も恵まれていた!?と云われる山形の出身者からでした。

※(写真)戦時中 行われた防空演習「写真集 山形100年」より。

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