戦時中は、これぞ私共の航空母艦!〜とかのキャッチフレーズで、大事に大事に使用させて頂いたものでした。
その戦時中、東京方面から疎開して来た生徒達の誰もが この校舎に驚いたようでしたね。田舎の学校と云う事で、何やら貧しい校舎を予想して来たのに拘らず、東京方面でも見られないような凄い校舎だったわけですから〜。
難点は?〜それは、もともと田圃(たんぼ)を埋めて建てられた建物だったので、当時から沈下?傾向が見られた事でした。
私がこの学校に入学したのは 昭和15年の春で翌年に戦争勃発、卒業したのが 終戦間もなくの昭和21年4月、つまり戦争は丸ごとこの学校で〜となりました-----。
ただ、これだけ立派でありながら、前述のように、作りに いろいろ問題があったのでしょうね、結構 早々と建て替えをしたらしく、現在では、全く違った 多少小振りの校舎が建っているように思いましたが〜〜。
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