以下が、その式で私共が 歌っていた 紀元節の歌。
この私も、小学校時代でしたが、一生懸命 歌いましたよ。
懐かしいもんですなア〜。
一 雲に聳ゆる 高千穂の。
高根おろしに 草も木も。
なびきふしけん 大御世(おほみよ)を。
あふぐ今日こそ たのしけれ。
上に載せた絵は、当時なら、よく目にした絵だったと思うのですが、現在では見向きもされない絵でしょうね。
------------申せば、時代 々 によって国家の歴史観に変節が齎されるのは、まあ〜ヤムを得ないのでしょう〜。
更に 例を挙げるとすれば------------ 我々が教わった「天照大神(あまてらすおおのかみ)」が「女王卑弥呼」と鞍替えされても、それはそれ、歴史観に於いては、それ自身、常に変節を重ねて時代を刻んで行くとの視点に立てば、いずれまた違った視点に立つ歴史が作り上げられる と考えるのも可能となる、と、そのような理屈が出ても不思議ではないし、まあ〜そうなれば、いずれ、第二第三のヒミコやらハナコ?やらモモコ?やら、が出て来ても否定は出来ないだろうし、と!〜---------これが 取り敢えずの正解でしょうナ〜。
まあ〜ともあれ 、繰り返しになりますが、いずれの国家に於いても、絶対的な歴史観とは存在し得ないと心得るべき-------これを肝に命じるだけの柔軟性を持つ----------これこそが絶対的に必要な 我々が取るべき姿勢なのかもネ〜。
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