心機一体!の境地
温厚にしてあの勇猛
手柄を誇らず 還らぬ部下を想う
友情に泣く小川郡隊長談・・・
非の打ち所なき典型的武人
亡き部下の名を呼び 趣味を捨てて猛訓練 遺族を泣かせた限り無き愛情
父は日露戦争に散る 半生を薫育に傾けた母の慈愛
北海道開拓の苦闘を偲ぶ
少将の写真を入れた卓上額縁が我が家の次兄の机に長く載せてありましたね。
加藤隼戦闘隊の歌の歌詞は下記
(1)エンジンの音轟々(ごうごう)と 隼は征(ゆ)く雲の果て 翼に輝く日の丸と 胸に描きし赤鷲(あかわし)の印はわれらが戦闘機
(2)寒風酷暑ものかはと 艱難辛苦(かんなんしんく)打ち耐えて 整備に当る強兵が しっかりやって来てくれと愛機に祈る親ごころ
(3)過ぎし幾多(いくた)の空中戦 銃弾捻(うな)るその中で 必ず勝つの信念と 死なばともにと団結の心で握る操縦桿(そうじゅうかん)
(4)干戈(かんか)交ゆる幾星霜(いくせいそう) 七度重なる感状の勲(いさお)の蔭に涙あリ ああ今は亡き武士(もののふ)の笑って散ったその心
(5)世界に誇る荒鷲(あらわし)の 翼伸ぱせし幾千里 輝く伝統受けつぎて 新たに興(おこ)す大アジア われらは皇軍戦闘隊
この中で4番は曲と違った詩吟調のメロデイ。歌う度に 涙が出そうになりましたよ。
加藤 建夫(かとう たてお、1903年(明治36年)9月28日 - 1942年(昭和17年)5月22日)は、大日本帝国陸軍の軍人、戦闘機操縦者(空中勤務者)。最終階級は陸軍少将。北海道上川郡東旭川村(現:旭川市東旭川町)出身。旭川中学(現:北海道旭川東高等学校)、仙台陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校(専科)卒。
太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦時に、戦隊長として一式戦闘機「隼」装備の「加藤隼戦闘隊」こと、飛行第64戦隊を率い活躍した帝国陸軍(陸軍航空部隊)のみならず日本軍を代表するエース・パイロットの一人。
(wikipedia より)
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